神様という名の虚像・赤

 ——腹が熱い。最初に感じたのは熱の方だった。その数秒後には痛みが追いついてきて、視線を落とせばまだ成熟しきっていない小さな手がしとどに濡れて、灰のような白が赤く塗り潰される。そしてそれは雨のようにカーペットに染み込んでいくのだろう。実際に目の当たりにすることはないけども。耳鳴りに紛れつつ、微かに水音が響いている気がする。しかしもし錯覚なのだと誰かに諭されたなら、そうなのかもしれないと納得してしまうほどに頼りなく危うげな感覚だ。更には少しずつ砂時計の砂が零れ落ちていくように、意識が朧に霞んでいくのが判る。このまま僕は死ぬんだ。そう察しても、自分でも不思議なくらい怖くはなかった。もしかしたら心の中で、こうなる日が訪れることを予感していたのかもしれない。何にせよこの子に殺されるなら仕方がない。全ては僕自身が招いた結果——これまで僕がやってきたのは、ただのエゴだった。彼の幸せなどではなかった。そんな想像を裏付ける言葉が唇から小さく吐き出される。

「神様なんか嫌いだ。そんなもの、おれは欲しくなかったのに……」

 憎しみや怒りより悲嘆に暮れた声だった。路頭に迷う心細い子の声だった。——ああ、そんなつもりじゃなかったのに。僕はただほんの少しでも明るく、幸せな毎日を歩んでほしかった。そして叶うならずっと側にいて助けになりたかった。全て後の祭り。どれだけ悔やんだところで、時間を巻き戻すことは出来ない。僕の人生は終わる。もうどうしようもないから、せめて——。


 あの日、彼を見つけたのは偶然の産物だった。かつて栄華を極めた人間が、この世界を好き勝手に弄った結果、彼らに自然と呼ばれていたものは全て消えて無くなった、らしい。それをたかだか三十年生きただけの僕が実際に目撃する機会なんてある筈がなく、両親や学校の先生に歴史の勉強として教わったに過ぎず、当時の記録なども残されているらしいのだが田舎に暮らしている為、一度も見たことのない想像も出来ない何かだ。しかし、村から一歩足を踏み出した外の世界は僕にとって非常に馴染み深い場所でもある。何故なら、砂礫の中にぽつりぽつりとある、かつて人々が生活していただろう遺跡から物を持ち出して生計を立てているのだ。本来はその大きく発展した文明の遺産といえる、水も陽の光もなくても育つような植物や動物を育て、無事に今日も生きられたと、神様や家族に感謝して暮らさなければならない。両親も友達もそうやって生きてきた。けど僕はその、何というか彼らのように信心深くなれず、いや神様なんて絶対にいないと言い張る気はないけども、伝わる歴史が全部本当のことだというなら、神様はきっと人間のことなんか、とっくの昔に見放している。そう思えてならなくて祈りを捧げる気にはなれなかった。だから村の外を出歩いては昔の人間はどんな生活をして何を考えていたのか、そんなことを想像しながら、僕と同じく酔狂な暮らしをしている同志——とでも呼ぶべき相手に見つけた何かを渡す代わり、生きるのに必要な物を貰って暮らしている。

 しかし、まさか、外で人間に——それも子供に出くわすだなんて、思いも寄らないじゃないか。

 そんな胸中の呟きは、舌先で転がしてはみたものの結局吐き出すことなく飲み込む羽目になる。なんだか世に言う犯罪行為をしている気分になって、お約束のように頬をつねってみるも、目の前の子供は現実なんだと、教えてくれるだけだった。
 ……確かにある程度、通う場所は決まっているけど。生きている人間と会うことは滅多になく、それも、僕と似た考えの持ち主だとか、真剣に歴史について考察しているような人たちで、自分の生き方も定まっていないだろう子供がいるなんて予想だにしていなかった。
 その子はただ床面に転がっていた。一瞬死んでいるのかと思ったけど、それを否定するように上がった腕が空を目指してすっと伸びていく。骨と皮だけ——というのは言い過ぎにしても、随分と細い。それが遺跡の天井に空いた穴から漏れ出す光を掬うような、あるいはここに来るなと押し留めるような、どちらとも取れる雰囲気でぐっと拳を握った。覚えたこの気持ちを上手く言い表すことが出来ない。遺跡の照明は激しく明滅を繰り返し、そのせいで暗がりに目が慣れないから彼の姿を捉えきれず、だからかもしも本当に神様が存在するなら、この子みたいな感じなんだろうなって思った。こんな場所に何故だか一人でいることも含めて。異様で不思議ででも何だか惹かれるものがあったんだ。だから、戸惑いつい足元に転がる石を蹴飛ばしてしまって、彼に気付かれた瞬間、僕は慌てて両手を上げながら少し前へと進み出た。

「ごめん、その、邪魔する気はなかったんだ。いや何をしてるのかは判らないけど——独り?」

 言ってから不躾だと気付いて、後頭部をガリガリと掻き毟る。こんなだから人付き合いが苦手になったのか、人付き合いが苦手だからこんな風になったのか——。僕も君くらいの年頃のときはそうじゃなかったんだと口に出すわけでもないのに言い訳して、つい一歩後ろに下がってしまうくらい、まるでバネで動いているみたいな機敏な動作で起き上がる、その子の瞳に僕は飲み込まれそうになった。
 ——それは絵でしか見たことのない海みたいな青だった。肌は逆に遥か遠くにある瓦礫の山へ降り積もる灰と同じだ。子供の頃に、具合が悪いなら寝ていなさいとベッドに押し込まれたとき見た自分の顔より余程白かった。丸い目、それを縁取る長い睫毛。僕に一般的な美醜の感覚があるのかは自信がないけども、色だけじゃなくその子を形作るパーツの一つ一つが整っていると感じた。神様という単語がまた頭の中に浮かんだ。

「——……」

 僕の声が聞こえなかったのか、それとも喋りたくもないのか、彼は黙ったまま僕の顔をじっと凝視してくる。外見に対し賛辞の言葉をかけられたことがないので、きっと普通だろうからそうまじまじ眺められても困る。というか居心地が悪いし、黙って立ち去るのもそれはそれで何か——と気遣う感情が半分、奇跡の時間を台無しにしたくないなという身勝手さが半分。気まずい沈黙の最中、ふと彼の視線は僕の顔から少し下がった。自分もそれを追いかけ見下ろしてみる。手に持っているのはこの遺跡から収集した用途不明のオーパーツを入れた鞄。見た目は凄く重そうなのに、持ってみると意外とそうでもなく、一杯まで入っている。……かさばるのはまあどうしようもない。

「……これが気になってるのかなあ。良かったらその、どうぞ……?」

 大の大人が小さくて細っこい子供相手に下手に出ている絵面には目を瞑る。逃げたり、襲いかかってきやしないかと、何も喋らないことにほんの少し不気味さを感じて、恐る恐るその子の側まで歩いて近付いていった。僕の想像に反して彼はじっとしたままで、この距離でもまだ呼吸で胸が上下しているのは見えないから、目が僕の鞄を追っていることに安堵する。急に動かなくなったら怖くてもう、ここには来れなくなる。まだ持ち出せる物は色々とありそうなのに。
 彼の正面に膝をつき、蓋を開けて鞄の中身を取り出した。父さんが持っていた中から貰い受けたこの鞄はどこか別の村だか町だかで買ってきた物らしく、物持ちがいいだけじゃなく雑に扱っても破れたりしないのでとても重宝している。そういえば遠い昔、見た目の割に物の扱いが粗雑と誰かに言われたことがあった。とふとそんな記憶が甦った。
 その子はまるで未知の物に対する恐れを知らないように、躊躇なく手を伸ばし、滅茶苦茶な光を反射して輝くぐにゃぐにゃと歪んだ形のそれを持ち上げ、角度を変えては入念に観察する。——まるでよく見知っている物を扱うかのよう。そんな感想に僕は本当にそうなのかもしれないと気付いた。
 だって子供が一人こんな遺跡の中にいるなんておかしい。親は影も形もないし、自然もなければここで食べ物を作っている様子もなかった。この遺跡には何度も訪れているから、僕がそのことに気が付かない筈がないのだ。ならこの子は本当に神様で、人間の言葉が通じないのか話すつもりがないか、どちらかに違いない。神様は当然今に至るまでの歴史を知り尽くしているだろう。少なくとも敵対的ではないのだから親しくなれば意思疎通も可能なのではないか。真実はどうでもいいけど、過去の人間の愚行についてどう思うのかは気になった。生唾を飲んだ喉がごくりと音を鳴らした。

「あの、もし君がよければだけど……僕と一緒に来ない? 判らないことがあるなら僕が教えてあげるから。君のために何でもしてあげる。それが欲しいなら全部あげるよ。だから——」

 心臓が急ぎ足になって、冷や汗が背中を伝う。逆鱗に触れやしないだろうかと不安で一杯になる。未知の存在に触れるのは怖い。けれど同時にひどく魅力的でもある——。
 僕が手を差し出すより早く、彼の手が伸びて僕の服の袖を引っ張った。僕は反対の腕で彼の細っこい腕にそっと触れる。温かく柔らかい。人間と同じだ。そんなささやかな事実に喜びを知った。鞄を彼に預けて代わりに、彼の手を引く。僕が生きてきたのはこの日の為のように思えた。


 どうやら幽霊でも妄想でもなかったようで、村に帰ればみんなが驚きと戸惑いの目で僕と彼を見た。不気味がっているのは何も言わなくても顔を見れば判る。元々両親が立て続けに病死した頃には遠巻きに見られていたし、今更どうということもなかった。ぎくしゃくしながらも彼らの輪に混じっていたときを思えばむしろ気が楽だった。彼の手を引いて、家に連れていく。彼はいつか食べられると悟った動物のように大人しくしていて、けれど何かしら言えば薄く反応は返してくれるから、少なくとも嫌がってはいないらしいと理解出来た。後は根気勝負だ。自分だけが感想を聞く権利を得たようで、優越感に浸っていた。


 しかし長く生活を共にするにつれ、初めて出会ったときに抱いたあの感情は何だったのかと思うくらい僕は彼のことが気に入っていた。父は遺跡を探索する趣味こそなかったが、無類の読書家で、売り買いの為に村を離れる機会も多く、おそらくはこの村では右に出る者がいないだろう蔵書量を誇る。その内の何割が正しい歴史を記しているかは別として、本を読みながら言葉を教えるのは楽だった。そうして意思疎通が出来るようになると、神性は失われる代わりに、親近感が増していく。取り引きしている相手には悪いけど、誰かと話をするってこんなに面白いものなんだなと思い出した。僕が先生になっているせいで教える内容も偏ってしまい、それで嗜好が似るのもあるだろうか。炊事洗濯に掃除それから遺跡探索。何をするにも彼と共にいて、なのに一人より気が楽だった。
 ある日、家に帰る途中に服の裾を癖で掴み、不意に聞いてきたことがある。

「神様だから優しくしてくれたの?」

 一瞬何のことか解らなかった。聞けば村人たちがそんな噂をしているのを小耳に挟んだらしい。僕はそうだよと頷く。神様だった。だから僕は一緒に来ないかと君を誘ったんだ。そんな昔話をして笑った。いつの間にか笑えるくらい遠い昔の記憶になっていた。この子は少し大きくなり、でも同じ年頃の子と比べればきっとかなり小柄な方なんだろうけど。でもまあそんなことはどうだっていい。いつも雲に覆われていて滅多に光が射さない空も、人の口さがない言葉も少しも気にならない。ただこの子と一緒にいられることが、僕を見返し笑ってくれることが幸せだから。だから僕はその日以来、彼が浮かない顔をするようになった理由に思い至らずに、そしてこんな結末を迎えてしまったのだ。


 伝えそこなった言葉が内側で燻る。君は僕にとって確かに神様だったけど、言葉通りの意味で思ってたわけじゃない。僕には理屈は解らないけど何かあって君はあの遺跡にいた普通の子供だったんだ。でも君は僕に生きる意味をくれたから、だから神様だった。そういうことが言いたかったのに言葉が足りなかったね。ごめん。愛してるよと伝えれば、それで君には全部伝わっていると思った僕が愚かだった。
 ずるりと愛用していた果物ナイフが引き抜かれ、最早指の一本も動かせない僕はただ、床に転がるしか出来なかった。瞼が重くて目を閉じると室内なのに雨が降り注ぐ。僕に縛られることなく生きる君が幸せであることを祈ってる。吐き出した声が言葉になって届いたかどうかさえ、もう分からずに意識はそこで途切れ落ちた。

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