今日も雨が降っている

 ふと意識が浮上する。何か夢を見ていたような気もするし、そうでもないような気もする。ただ近頃はしょっちゅうの冷や汗はかいておらず、自然と安堵の息が零れ落ちた。体温で暖まった布団の中でもぞもぞと身じろぎし、目を閉じて二度寝を試みるも、瞼は重たいし頭はぼんやりするのに、何故か一向に睡魔が訪れる気配は無いまま。無駄にじっと天井を眺めているだけの時間が惜しく思えて、シーツに手をついて緩く上半身を起こした。途端にうっすらと自覚していた倦怠感が全身を覆って、目覚めて一分もしない間にむずむずし始めていた鼻が、いよいよもって存在を主張し始めて何回かすんでのところで踏み留まったものの、ついに我慢出来ずくしゃみをした。一度してしまえばあとはもう留まることを知らず、二度三度と繰り返す。もちろん美人の子がするような「くしゅん」と可愛らしいものではなくおっさんもかくやという豪快なもの。就寝用のマスクをしているお陰で飛び散ってはいないから許してほしい。と今は一人きりでしんと静まり返った部屋にいるのに、そんなことを考えた。その間にもマスクの中にこもる息はぜいぜいと重くなって、額に手を当ててみる。起きてからまた急激に熱が上がってきているのは気のせいじゃない。洟をすすり、咳は止まらず、熱が上がったり下がったりを繰り返す。わたしは今、数年振り何度目かのインフルエンザによって、ダウンしているのだった。


 何とかベッドから這い出て、ふらふらとリビングのソファーまで辿りつくと、正面にあるテーブルに一枚のメモが置かれていた。食事はどれくらいの時間に食べるのがいいとか、貰ってきた薬をどこにしまったとか、作り置きをしてくれている料理が何かとか。書いているのは必要最低限のことだけなのにそれが手書きだと、途端に人間味を感じるのだから不思議だ。普段パソコンやスマホのディスプレイ上に映る、洗練されたフォントばかり見ているから尚更かもしれない。病院に連れて行ってもらった昨日は待ち時間が長かったのもあって最低最悪に具合が悪く、お医者さんの話をよく聞けていなかったから有り難い。こういう時、一人じゃなくてよかったとつくづく思った。
 しかしひどく心配そうだったのをベッドの上で見送り、喘息が絡み、ひゅーひゅーと鳴る喉が気になりつつもどうとか寝て、それなりに眠れたつもりだったが、まだ十時過ぎだったのは予想外だ。昨日はろくに食べられなかったから結構お腹が空いているけど、言いつけを守れてこそ社会人というもの。ぐーぐー音が主張してくるのを無視し、わたしはメモを戻す代わりテレビリモコンを手にした。スリープ状態にしてあったようで、すぐに画面がつく。地上波はおろか、契約しっぱなしなのに最近は全然見ない衛星放送もケーブルテレビもスルーして、無線で繋がったインターネットを使い、今はやりのサブスクリプション制のサイトにアクセスした。このところ忙しさにかまけて、見ずに溜め込んでいた海外ドラマに手をつけようかと思ったが、結構な量になっていて一気見すると、確実にお昼を通り過ぎて夕方、最悪あの人が帰ってくるまで見っぱなし——なんてことになりかねない。トイレのために席を外しても、何だかんだ止まらなさそうだし。それにストーリーが肝だから今のこのふわふわとした頭で理解出来るかも不安だ。なので主人公役の俳優が出ている映画を適当に選び、再生する。気にはなるけどお金を払うのは若干躊躇う、くらいの作品が多いわたしにとって、色々なものに手を出しやすいこのシステムは凄く有難い。
 愛用のクッションを抱え、封切りの時にネットのあちこちで見たあらすじを記憶から手繰り寄せる。確かスタントもCGも使わない派手なアクションが売りだったはず。ストーリーラインもシンプルで、ちょっとコメディっぽかった。咳が出るので笑えないのはつらいけど、実をいうとあのノリは全然好みではなく、適当に流せるので問題なかったりする。じゃあ何が好きでよく見てるのと聞かれることがあるけど、長期シリーズ特有のマンネリを打開しようとする展開や登場人物の成長が感じられる描写が楽しいのだ。あとは個人的に男女問わず、アジア系じゃない人の顔立ちや骨格が好き。恋愛的な意味ではなく、美術的観点に近いと思う。
 調子が微妙なせいか、それほど食指の動く内容ではないせいか。いまいち作中の世界に入り込めず、一人こうしてテレビの前で座っている状況に、小さな頃を思い出す。子供は風の子と、屋外で遊ぶこともそれなりにあったため、健康診断の際には決まってもっと運動してくださいと言われる今とは違って、体調不良を理由に学校を休むことはあまりなかったが、それでも熱が出て平日に家に閉じこもる日が何回かはあった。両親が共働きかつ兄弟もおらず、どちらの祖父母とも同居はしていなかったので、部屋にわたし一人。病院で薬をもらった後の二日目三日目には、朝は起き上がれないくらい酷くても、昼頃にはけろっとして一国一城の主になった気になって、家の中をうろついたり、隠れてゲームをして遊んだりしていた。横になっている時も当時は当然配信サイトなんてなかったから、適当にテレビ番組を流していたっけか。子供向け番組にしろワイドショーにしろ、普段は絶対に見られないものを見られる背徳感にワクワクとしていた覚えがある。
 ……もう久しく、テレビを見ていないな。
 見なくなったきっかけはよくネットで言われるような、偏向報道やヤラセ番組に嫌気がさしたというものではなく、朝出かける前に見ていたニュースのむごたらしいという表現では言い尽くせない事件事故に触れるのが、嫌いでたまらなかったからだ。事件の被害者がどんなにいい人だったか、罪もないのに突如として大切な人を奪われた遺族や友人の怒り。加害者の方はそんなことをするとは思いもよらなかったと言われることもあれば、よく知りもしない癖にこういうのも何だが、周囲の人とトラブルが絶えずに、いずれ何かするだろうと思われている人もいた。もちろんまた同じような出来事が起きないようにと伝えることは大事だから、見せしめのようになるのも、やったことを考えれば仕方ないことなのかなと子供ながらに思っていた。事故に至っては本当にどうしようもないケースもあった。ただそうして生々しく触れる他人の人生が、わたしの中で『普通』とは何なのかを無意識に刻み込んで、成長するにつれ理解し始めた自分自身が、それと違っていることを否応なしに突き付けてきたのだった。じわじわと真綿で首を絞めるって多分、こういうことをいうんだと思わせる形で。
 男も女もどちらも愛せるだとか、同性しか愛せないだとか。誰も愛せなかったり無機物を愛したり……今でこそ声高に叫び始められたことも、それでもまだどうにかスタート地点に立ったというのがいいところ。子供が欲しくてたまらないのに出来ない人もいれば夫婦合意の上で子供を作らない選択をした人もいる。SNSで馬鹿親だと叩かれる人々は『普通』の枠組みの中にいて、でもわたしはそうじゃない。信頼出来るはずの人が信頼出来ない辛さも、見ず知らずの似たような境遇にある人が配慮される時に抱く言葉では言い表せない感情も、『普通』の人はきっと、自分のものとして知ることはない。理解してほしいわけじゃない。けど、ずるい、不平等だなって思ってしまう。好きなこと面白いものをひとしきり楽しんで、それが終わった瞬間にふと降りかかる孤独。死にたいという言葉。それはまるで、こうして映画を一本見ている間も聞こえ続けている雨音みたいだ。ふとした瞬間に意識し、長く続いたり忘れた頃に思い出す。
 テーブル上のメモに書かれた文字をなぞった。わたしは死なない。一人の時から自殺する勇気なんてなかった意気地なしだ。だけど、終末論を聞くたびにこんな世の中は終わってしまえと呪う。あるいはわたし以外の誰かの手で革命が起こって、『普通』が覆らないかと願う。一人になるとこういうことばかり考えるから、本当わたしって駄目だな。大人になって自分の底が見えてしまった。——それもただ責任転嫁しているだけ?
 どうしようもないことを思い出している間に、テレビ画面ではスタッフロールが流れていた。何とか頑張ってキッチンに行くと、とりあえず飲み物を持ってきて咳き込まないよう気をつけつつ渇きに渇いた喉を潤す。そのまま別の作品を見る気になれずにぼーっとしていると、雨音だけ聞こえる部屋に、遠く聞き慣れたメロディが響く。その特別な響きに誘われるままいっそ悪化しすぎて軽い身体を動かして、寝室に戻る。スマホは根気強く持ち主であるわたしを待ち侘びて、思い入れ深い曲を鳴らし続けていた。当然ながら、ディスプレイに表示されるのはあの人の名前。そろそろご飯を食べて薬を飲むように、連絡してくれたと想像するに容易かった。
 んんんと喉の調子を整えてから、通話アイコンを押す。治ったら一緒にドラマの続きを見よ、その一言で充分だとわたしは確信していた。

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