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02. 木曽馬と生きる暮らし

5/11-5/12の2日間、名古屋大学IDEASTOAにて企画するIDEABATONにて、「木曽馬と生きる」と題して木曽福島と開田高原で、木曽馬の影響を受けた暮らし方の過去を学び、未来を考えた。

IDEA BATON #5  フライヤー

 本企画を行う名古屋大学 IDEA STOAを、XENCEにて企画・運営支援を行っている。

木曽馬には観光資源に限らない多様な価値が認められてきた

観光の目的としても人気の木曽馬。

開田高原に付くとすぐ、木曽馬の親子の銅像と、雄大な御嶽山に目を奪われる

 しかし1900年代に、種としての歴史を見ていくと、実はすべての種雄馬が去勢され途絶えかけていた。そんな中で奇跡的に、交配ができ残された木曽馬(第三春山号)がいた。この木曽馬は最期は賛否両論の渦中であったが、今では骨格標本として名古屋大学に受け継がれている。

 普段の生活の中で、多くの人にとって馬とはファームや園に行って近くで見たり眺めたり、または乗馬体験をしたりなど、観光の対象であることがほとんどだと思う。

 しかし、開田高原の方と話すと、暮らしの中で、馬とともに生きることで、様々な恩恵を受けて来たことがわかる。当初考えていた、生きる中での「馬の価値」という言葉よりも、共に暮らす(共生)中で、「お互いに与え合う恩恵」を大切にした関わり方がそこにあることがわかってきた。

犬や猫とは異なる、木曽馬との向き合い方

 木曽馬の里では、お忙しい中、中川さんに貴重なお話を伺えた。

開田高原にて中川さんより貴重なお話を伺う

 中川さんは、私生活でも馬とともに暮らし、仕事でも木曽馬の里で馬の世話をされている。
「馬耕などのこれまでの木曽馬と共に暮らす所作は、減りつつもあるが、アフリカなどでは再度求められているというケースもあり、馬との暮らし方を、受け継ぎ、伝承している。」また中川さん暮らし方だけでなく、実際にこれまで共に暮らす上で使われてきた馬具も集め、分析し、使う知恵(技術)とともに、後世へ残していた。

馬耕で削れてしまった場耕道具の刃。下(二枚目)は名古屋大学との協働で特注再生したもの。

 印象的だったのは「犬や猫とは異なる向き合い方」。

 異なるとは自分も思っていたが、種の強弱についての考え方や、動物愛護の視点に関しては、無意識にも近場の動物と同じように考えてしまっているのかもしれない。しかし馬は、人間と共に風景を開拓してきた種であり、また人間よりも大きく力もある。人と馬の関係となると、相手にとっては遊びであっても、私達にとっては、大きな事故になりかねない。種に対して、生き物に対して、改めて、時間をかけて向き合い方を考える必要が見え隠れした。

木曽馬の親子と開田高原のスタッフの皆様

馬は地域の風景や社会を動かす重要なメディア

 2日目には、ニゴと草カッパの会に参加させていただいた。参加をすると、開田高原の美しい風景は、馬とともに暮らすための所作によってランドスケーピングされた風景だということがわかる。

乾燥重量で1日8kgの植物を食べる馬。

開田高原で放牧される木曽馬

 その植物を標高が高く、暖かい時期も短い高原で確保するため、多くの土地が草カッパとして、下草が育てられ刈られている。またニゴと呼ぶ、草のタワーで、水に濡れぬように、集められる農地にも宅地にも使われず、ただ丁寧に下草が刈られた風景が、開田高原に広がっている。

野焼きとカッパ(草刈り)を繰り返される開田高原の野原を巡る

 馬がメディアとなった風景は、自然の風景だけでなく、地域の建物にも現れる。この地域は、伝統的農家の建築面積がやけに大きく、切妻の間口が広い。雪は豪雪地と比べるとそこまで降らないとみられ、勾配は緩やかだった。

長野県宝 山下家住宅へ

 伝統的農家の中がどのように使われているのか気になり、県宝山下家住宅を訪問すると、平面の1/4は厩となっていて、馬の居場所が母屋に完全に入っていた。厩は1mほど床が掘られ、発酵床になるようになっている。

建物のもっとも良いスペースとされる南東の角に設けられた厩

 この地域では米があまりよく育たない。そのため昔は木年貢という木材による納税や経済もあったようだが、誰でも山がありできるわけではない。

 面白かったのは、ここにはその他に馬地主という制度があり、馬を大量にもつ馬地主と、何頭か担当をもらって育てる小作人との間で経済圏がしっかりできていたという。育てるのにいくら、子供を産ませたらいくら、など、馬をメディアとした経済がちゃんとできていた。

木曽馬から見えて来た生物文化多様性

 最後には、木曽福島文化交流センターで5/12まで行われていた「木曽馬とはどんな馬なのか展」へ。

木曽福島文化交流センター

 今回木曽に伺うきっかけには、名古屋大学博物館での「第三春山号」との出会いがあったが、木曽での時間を通して、第三春山号が繋いだ歴史の大きさを強く実感した。

 展示の最後には、案内頂いた梅村先生からも、生物文化多様性のことについて伺う。生物文化多様性も、木曽馬ほど具体的な生物との関係性で語れる場所は少ないだろう。生物多様性でさえも、共通の言語で各地を語ることは難しい。ここで学んだ生物文化多様性を、他の場所でも認知し、デザインして生きていくには、まだまだ時間がかかる。

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