「パジャミィ / いよわ」を「アプリコット」とともに徹底考察!
はじめに
波方(@Xb9Xu)と申します。前回の考察記事では現時点で5つものスキを頂いておりありがたい次第です。
本記事ではいよわ氏の投稿した「パジャミィ feat.初音ミク」という楽曲を、歌詞を一通り解釈した基礎的な考察と、さらにもっと踏み込んだ応用的な考察に分けて考察していきたいと思います。
※解釈は個人の見解です。あくまで二次創作程度のものとして楽しんでいただければ幸いです。
基礎的な考察
「パジャミィ」を考察するにあたって、同氏の関連する楽曲「アプリコット」の概要をかみ砕く必要があると思ったので、まずはそちらを軽く考察していきます。
アプリコット
「さよならジャックポット」「あだぽしゃ」の歌詞などから、いよわ氏が「人生」のことを電車で喩えているのは言うまでもありません。
つまり「無垢なる切符の片割れ 握りしめてみた」は、アプリコットちゃんがこの世に生まれ落ちたことを表しています。切符の片割れとは片道切符のことで、要するに一度乗ったら戻って来られないことを表していると思われます。
しかし、「アプリコット」の歌詞には「行きと帰りのうたた寝」とあります。行きの電車が「生まれてから死ぬまで」だとしたら、帰りの電車は何を意味しているのでしょうか。もしも帰りの電車があるとするなら、それは決して人生を遡ることなどではなく、死んで灰 / 炭素になってから自然に還っていくことだと思います。したがって、「うたた寝」という歌詞には自分が灰 / 炭素から土に戻る時と同じような心持ちで、ぼんやりとした意識で時間だけが過ぎていってしまうというような人生観が込められていると思います。
続いて「夕暮れの素敵な雨」。これは夕立のことだと考えています。まるで突発的に雨が降り出してしまうかのように、私たち人間はそうしたいと望んだわけでもないのに気がついたら生まれてきてしまうのです。他人はそんな人生に対して素敵だとか言うけれども、一体何が素敵なのだろう、という皮肉が込められている気がしないでもありません。
「あんずの香り」とは何でしょうか。杏(アンズ)に対応する英語「apricot」の語源を辿ると、「早熟」を意味するラテン語「praecocia」になります(杏は桃(!)と似た植物で、桃と比べて成長が速いことから)。
また杏には産毛が生えており、このことを植物学では「pubescent(毛が生えた)」といいます。そしてこの語は「思春期の」という意味も持つのです。もしかしたら、香りを意味する英単語「scent」ともかけていたり?!(これは多分考えすぎ)
さらに、杏の花言葉の一つに「乙女のはにかみ」というものがあり、これは杏が桜よりも早い時期に、はにかむように咲くということに由来しています。
これらのことから、「あんず」は思春期における少女の心の成長の象徴 だと考えます。もっと広くとれば、「成長する=老いる」側の象徴です。杏が甘酸っぱい味をしているのも、恋を連想させます。
セレナーデとは恋人に贈る曲のことです。それが学校で聞こえてきて「おともだちも右回れ」ですから、「今までは自分と同じように『少女』でしかなかった周りの友達が、自分よりも早く恋を知って大人になっていくこと、また自分もいずれそうならなくてはいけないこと」に対する戸惑いを示唆しているように感じます。
本当はアプリコットにももっと考察する所がありますが、パジャミィの考察に入るためにひとまずはここまでとします。続いてパジャミィの本考察を行っていきます。
パジャミィ
「クラスメイトとは少し違う友達」=パジャミィ。アプリコットちゃんにとって、パジャミィは夢の中でしか会えない友達なのです。
「夢の部屋」は、アプリコットちゃんが大人になることからの、ある種の逃避先のような側面を持っているといえます。「とっ散らかしたおもちゃ」というワードからも分かるように、パジャミィは少女の子供らしさ、という部分を象徴する存在だと思います。
夢から覚める時の、お別れの合図。頬をつねると痛みで目が覚める=「ここが夢の中である」ことをパジャミィは知っています。
これは『アプリコット』の「あしたてんきになあれ」というフレーズと関連付けて、靴飛ばしの天気占いのことだと考えます。
大人にならなくてはいけないが、なりたくない、という葛藤を抱えた誰かにとってパジャミィは、ひと時の心のやすらぎを与える存在なのでしょう。その実、何の解決にも向かっていないということが「時間かせぎ」というワードチョイスから感じられて、なんとも切なくなりますね。
これはアプリコットの願望で、文意が明らかになるように付け足すと「お願い目覚めを忘れたままで(いさせて)」だと思います。
1番の歌詞では「暗い 夜がこわくて」だったのが「苦い 朝がこわくて」に変わっています。私はこれを、幼い頃は暗い夜が怖くて泣いていたが、今では夜はパジャミィに会えるので怖くない、むしろ夜が明ける方がパジャミィに会えなくなるから怖いというふうに解釈しています。
「苦い」のは何故なのでしょうか。
それは彼女にとって「日の光を浴びること」=「成長すること」になってしまっているからだと思います(杏は日当たりの良い環境で大きく成長するため)。幼い頃は自分の成長を素直に喜べていたのでしょうが、次第に大人になるという成長の実感が「苦い」ものに変わってしまったから朝が来るのが嫌なのだと推察します。
「皆 嘘をついてる」と言っているのはアプリコットちゃんで、「ささやき声で 打ち明けた」のはパジャミィであると私は解釈しています。(もしかしたら違うかも?)
クラスメイトにパジャミィは本当にいると言い張っても信じてもらえなかったから「皆 嘘をついてる」と涙ぐんでいるのであり、そんなアプリコットちゃんに対してパジャミィは、実はわたしはあなたが子供のときだけ夢の中に現れる(トトロ的?な)友達で、いつか別れを告げなければならないのだと明らかにしたのだと思います。そして、「それはアプリコットちゃんが健やかに育って人生の次の段階に進むことの証なのだから、そんなに悲しいことじゃない、泣かないで」とアプリコットちゃんを慰める様子まで想像させられます。
涙腺崩壊。よくもこんな面白いものを作ってくれたな。私は通学中の電車でこのあたり思い出してちょっと泣いてました(ガチ)。
「本当の気持ち」とは、本当はパジャミィもお別れをしたくないということなのでしょう。夢を見て自分と会った人を悔いなく送り出すために自分の気持ちに嘘をついて演じきらなければならない、という苦しみを洩らしてしまったのです。
「地獄」とはまさにこの苦しみを喩えていると思います。加えて、「アプリコットちゃんが夢から覚める」=「パジャミィが眠りにつく」なので、パジャミィには実質的な死が訪れるともいえます。嘘をつきながら+死ぬ=地獄へ落ちるとも解釈できそうです。
とても叙情的でもの悲しい雰囲気のある詩ですね。
「それならば誰があなたを起こすの、パジャミィ」は前述の通り、アプリコットちゃんが夢の部屋に来なくなることでパジャミィが永遠の眠りにつくということです。
「こんな曲を流すように」には自己言及性があり、「あふれる音楽が流れ終わったなら 寂しいけれど お片付けをしなくちゃ」と言っている通り、この曲がお別れの曲であることが示されています。
一番サビの歌詞と比べて前向きなニュアンスを持って締めくくられています。
応用的な考察
パジャミィとはなんだったのか
ひとまずこれまでの基礎的な考察で、パジャミィはアプリコットちゃんが作り出した存在であるということは自明になったと思います。ですがここで、なぜパジャミィは生まれてきたのか、一体何者なのか?という疑問が生じます。この疑問に回答を与えるため、精神分析において用いられる概念を導入したいと思います。
精神分析家フロイトの理論によれば、夢とは抑圧された願望の形を変えた充足です(彼のいう「抑圧」の語義とはニュアンスが違うことを承知ですが、どちらにせよ考え方の意義は失われないと考えてこの語を用いました)。したがって、パジャミィは「子供のままでいたい」というアプリコットちゃんの願望を象徴化した仮想の人格であり、同時にアプリコットちゃんはその願望を相手が持つものとして投影していると考えることもできます。つまり私が言いたいのは、パジャミィはアプリコットちゃんの心の一部を一時的に切り離してできた人物であるということです。
であるとするならば、パジャミィはさらに、一人の人間が持つ両義性・二面性を当人の葛藤の内から見つけ出すための枠組みであるとも解釈できます。実際、ここまでの歌詞や考察から二人を以下の属性に大別できると思います。
アプリコット:日(昼)、変化、現実
パジャミィ:夜、永遠、想像
これらはどちらが良い・悪いのではなく、ちょうど中国の陰陽思想のように、両方が互いになくてはならない相補的な概念です。ですから、分断された二人の人格にとっては別れが来たと認識されていたが、むしろ一人のアプリコットちゃんという人間の次元ではどちらもかけがえない大切な自分として統合されたと私は解釈します。
アプリコットちゃんの身に起こったこと
アプリコットちゃんの身に何が起こったのか。さらに深堀りするために、精神分析家ジャック・ラカンの提唱した「シェーマL」という概念を用いて説明を試みます。シェーマLは超大雑把に言えば、人間の自我の生成過程を表す図式です。
S(主体)は分析主体(行為をする主体、といった感じ)のことです。
A(大文字の他者)は象徴的他者であり、ここには言語の場が入ったり無意識の場が入ったりします。
a´(小文字の他者)は想像的な場における曖昧で個別な他者のイメージであり、A(大文字の他者)とは区別されます。
a(自我)は最初から備わっているものではなく、a´(小文字の他者)を通して作り上げられるもの(自分とはこうであるという像、イメージ)です。
S(主体)がa´(小文字の他者)と同一化を図ることによりa(自我)が形成され、a(自我)とa´(小文字の他者)は「私か、あなたか」といったイメージの取り合い(双数的な競合関係)に入ります。例えば、子供は最初、分断された身体イメージしか持っていませんが、鏡に映った自分(これが小文字の他者)を自分であると認めることで全体的な身体イメージを獲得します。そして、a(自我)はA(大文字の他者)からの承認を得ることによって満足を得ることができます。また、S(主体)はA(大文字の他者)から無意識のメッセージを受け取ろうとしますが(象徴的な関係)、それはaとa´を結ぶ想像的な関係の線によって遮られてしまいます。
とても抽象的な概念であり説明が難しいのですが、ざっと概要を説明するとこんな感じです。
私はこのa´(小文字の他者)にあたるのがパジャミィだと考えています。アプリコットちゃん(S)は手鏡に映った自分(パジャミィ)を確認することで理想的な老いることのない自分という像(a)を追い求めるのですが、子供のままでありたいという自分のイメージがパジャミィという人格に姿を変えて夢に現れていると考えます。そして現実の自分と理想の自分がだんだんかけ離れていくことで、パジャミィはもはやa´(小文字の他者)ではなくなり消えてしまった=手鏡の破壊、というのが私の説です。ただ、「パジャミィ」でははっきりと自分ではないと認めたことで、むしろアプリコットちゃんを構成する本質・大切な要素になったと考えていることも付け加えておきたいと思います。本当のパジャミィは「ない」ところに「ある」のです。
アプリコットちゃんの心理
以下の3つはそれぞれのサビの歌詞の特徴的な一部分を順番に抜粋したものです。
子供の頃は大切にしていたものが、大人になってから見るとなんでこんなものを大事にしていたんだろうと思ってしまうかのような、そういう価値観の変化が起こっていると解釈します。(正直自身はありません。)
アプリコットちゃんは老いるにつれて自分が穢れていくという実感を持っていて、そんな自分が小さい頃の無垢な思い出に触れようとするたびに輝きを失ってしまったのではないかなと思いました。
そう考えるとラスサビの歌詞にも筋が通るような気がします。
大人アプリコット「ごめんねとは言わないで」
「脳の裏をあたためている=必死に思い出そうとしているから」
→宝箱から出てきたのはゴミだった
子供アプリコット「(大人になったあなたにとっては)大好きとは言えないわ」「そうでしょう?」
なぜアプリコットちゃんは大人になるのが嫌なのでしょうか?
これはおそらく一つの正解がない類の問いだと思いますが、以下に私の考えをまとめてみました。
率直に言うと、自由で主体的な、一人の人間だった子供の頃の自分の価値が、成長するにつれて単なる「大人の女」としての役割や価値観に収斂されてしまう。そのことを身体の変化を通じて嫌でも実感せざるを得ないからだと考えています。
ちょうどそのような思春期の少女の心理を巧みに描いた作品を思い出したので、特に当てはまる部分を引用しておきます。
この小説もとても面白いので読んでみてください。
アプリコットちゃんの場合、そういう少女の持つ全能感、永遠性への希求を具現化したのがパジャミィだったのではないかなと思います。
おわり
ここまで7000字以上にわたる長文を読んでいただいてありがとうございます。
Special Thanks !!
いよわさん、初音ミク、読者の皆さん