![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144966198/rectangle_large_type_2_beb511849ce3511800544f4ff1c800aa.png?width=800)
いよわ「大女優さん」考察――フィクションと現実のパラドックス[増補版]
イデオロギーは、われわれが堪えがたい現実(リアリティ)から逃避するためにつくりあげる夢のような幻想などではない。イデオロギーはその根本的な次元において、われわれの「現実(リアリティ)」そのものを支えるための、空想的構築物である。
(鈴木晶訳)、河出書房新社、2015
はじめに
波方と申します。この記事ではボカロ曲「大女優さん / いよわ feat.花隈千冬」の考察をしていきます。あくまで個人的な解釈の一つにすぎないことにご留意ください。
あらすじ
登場人物
・大女優1
・大女優2
・大女優3(仮に=「大女優さん」とする)
ストーリー
ショートフィルムを録ろう。
約五十秒 眠気がピークになれる邦画
暇で曖昧、嫌いな機械
もっと始終踊ろう。
ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、
いかれた一人芝居がしたい。
今日も卑屈の孤島
約束・烏合に向けてはヒールになれ
口説くな。
見たネタにもシビアになりたい。
法と理屈を問おう。
まず女優をゆめ腕がいい筋まで募るな。
慕えない距離には違いない。
「ということで、後輩二人に声をかけて
演じてもらうことにしました。」
演じてもらうことにした。
シナリオは、毒にも薬にもならない
でも二人だったら到底するわけのない
殴り合いの大喧嘩。
「まず女優をゆめ腕がいい筋まで募るな。」=「まず女優を募ろう。決して腕がいい脚本家まで募るな。」(?)
大女優さんはショートフィルムを録るために、自分が書いたシナリオを後輩二人(大女優1、大女優2)に演じてもらうことになる。そのシナリオとは、「二人だったら到底するわけのない殴り合いの大喧嘩」である。だとすれば、「ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、いかれた一人芝居」とは一体何なのか?
建設的な議論ができなくなる程の喧嘩が起こって
ショートフィルムはお釈迦。
「前はそんなつまらない人じゃなかったですよね。」
告げる後輩を見て、ひどく心がえぐられて
それ以上続けられなかった。
「...」
仕方がないので代わりのシーンを自分で演じて埋めてみた。
「ああ、あいつらにサインでも貰っておけばよかった。」
そう思って提出したショートフィルムが入賞した。
演技として大喧嘩をさせていたはずがリアルなファイトに発展。「ああ、あいつらにサインでも貰っておけばよかった。」と思っていたということなので、代わりに演じた大女優さんは後輩二人と比べて演技が上手くなかったしその自覚があったと考えられる。
しかしショートフィルムは入賞した。それをきっかけに大女優さんは女優としてのキャリアを歩み始め、ついには名前の通り「大女優」と呼べるほどの大御所となるのである。次の場面ではその「大女優」として受けるインタビューのシーンにいきなり移り変わる。
![](https://assets.st-note.com/img/1719108229067-irWmuZ5bkl.png?width=800)
転回
欲しかったものは大体全部手に入ってしまった。
持て余した時間で古びたデータを見つけ出した。
開始数秒で、日記帳を目の前で
朗読されているような気分になった。
あまりにも都合の良い筋書き、あふれ出る妄想、
理想的に創られた自分。
言葉遊びの端まで吊り下げられた自尊心の塊。
「よくもこんな面白いものを作ってくれたな。」
思わず笑い声を出してしまった瞬間に、
それが画面の向こう側から聞こえていることに気が付いた。
ショートフィルムを録ろう。
約五十秒 眠気がピークになれる邦画
暇で曖昧、嫌いな機械
もっと始終踊ろう。
ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、
いかれた一人芝居がしたい。
「古びたデータ」=最初に録ったショートフィルムであろうということは、流れからして確からしい。そして、その恥ずかしい稚拙なシナリオに思わず苦笑してしまった現実の自分、その瞬間までもが、ある映画の内容であることが明るみになる。ここまではいい。
だが、その映画を見てなぜ大女優さんは同じように笑い声を出してしまったのか?
最初に録ったショートフィルムこそが、その当の映画、つまり自分の人生そのものだったとしたらどうだろう? 全ての辻褄が合う。同時に、無限の入れ子構造、数々のパラドックスの時空が広がる。このことこそが「大女優さん」という作品に深みを与えていると私は感じる。
これまでの歌詞や2サビの映像を見返してみてほしい。
「あまりにも都合の良い筋書き、あふれ出る妄想、理想的に創られた自分。言葉遊びの端まで吊り下げられた自尊心の塊。」そのものではないか。筋書きの都合の良さとは、それ(=人生)がまさに筋書き通りに完璧に動く当のそのことではないだろうか。つまり、シナリオの稚拙さと現実の稚拙さが一致している。
当のインタビューにおいて大女優さんは次のような一面を見せる。
![](https://assets.st-note.com/img/1719108468117-51bPn1jzwH.png?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1719108476989-SYZaTBqtMh.png?width=800)
自分のプロットを「完璧な」と評価していた大女優さんだが、それが「都合の良い」、笑ってしまうようなものだと発覚した今、「一番大衆ウケする、人気のシナリオ」に対して皮肉を漏らす態度には、一種の怨恨感情を読み取れないだろうか。(とはいっても少し強引だと思うし「その時点ではまだ古びたデータを見ていないのだから、そのような読みは時系列からしてナンセンスだ」という声もありそうだが、最初にショートフィルムを録る時点で自分のプロットに失望することまでプロットに含めていることを踏まえれば不可能な読みではないだろう。脱線してしまったが、ここではそういったパラドキシカルな可能性を一例として示しておきたかった。)
大女優さんは後輩二人(大女優1、大女優2)に「二人だったら到底するわけのない殴り合いの大喧嘩」を起こさせた。芝居としてである。だが起こってしまったのである、ガチのキャットファイトが。書かれたプロットとしての必然性が、するわけもない大喧嘩を(二重に)させてしまったのだ。
ともすれば、都合の良い筋書きによって現実を書き換えられてしまったことを「キャットファイト」において「狂科学(マッドサイエンス)?黒魔術(ブラックマジック)?」などと形容しているのではないだろうか。また「もう最悪!なんで…?」と不可解に思っているのではないだろうか。
大女優もどきと言われたくないの
うずもれたまま、いつ
完璧なプロットで動くのですか
認められぬ再証言 覗き込んだ扉
鴻鵠飛び立つ窓辺に
私がいなくなってる 手紙箱の中
大女優3は確かに女優として成功した。ではなぜ大女優さんは「大女優もどき」と言われるのか。それは、きちんと筋書き通りに大女優になったからである。上手くいきすぎることは(たとえそれが本当に現実だとしても)当該のものを「偽」たらしめる。なにかそのような思想があるのだと思う。大女優になりたい。だが大女優もどきとは言われたくない。ここではそれはジレンマになっている。
![](https://assets.st-note.com/img/1719108561020-MjzoT3o1wI.png?width=800)
MV終盤のエンドロールではキャストの名前が■で伏せられている。これには様々な可能性が考えられるが、私としては次の二つを挙げる。
①大女優1、2の役が後輩二人(カットがお釈迦になることまで含めて)なのか、全て大女優さんなのか、決めることができない。
②現実こそが映画であり、映画こそが現実であるというパラドックスを表している。つまり、大女優Nを演じる彼女らもまた大女優Nという役であり、それを演じる彼女らもまた大女優Nという役であり、……永遠に本名が出てこない。
最後、動画の再生が止まり、実は今までの展開全てが大女優3が作ったフィルムの中であったことがわかる演出がある。「ラスト数秒ですべてがひっくり返るような、いかれた一人芝居」とはまさにこのことのように思われる。このフィルムの外では作品の評判はあまり良くなく、おそらく大女優3は「大女優」にはなっていない。ラスサビで付け足される新たな歌詞によって「大女優」の不可能性が実現されたことと併せて考えれば、パラドキシカルな循環構造から抜け出せたかのように見える。
しかし、ここが重要なのだが、あくまで私自身の考えにすぎないが、ここで現れるフィルムの外の現実でさえもまだ無限の循環構造を免れていないように思える。フィルムを録るという行為に加えて、先ほど述べたように、自分の作品に失望するということまでプロットの作用に含まれているからだ。大女優さんはメタ的な立場で外側から自分に言及しようとしているが、まさにそうすることによって、逆説的にメタ的な立場というものは存在しないということを示してしまっている。つまり、テクストに対する客観的な言及ではなく、その不可能性によって、「大女優さん」という根本的に不可能な対象に言及することによって、円環的な作用を生み出すのだ。そのような意味で「大女優さん」とは、不可能なものとして経験される「現実」なのである。
![](https://assets.st-note.com/img/1719108756803-N2OG7kIUSJ.png?width=800)
この作品の特徴的な点は、脚本が未来の現実を作り出して実際にその通りに進むことだと考える。現実が妄想を作り出すのではない。その逆であって、妄想が現実を作り出すのである。言い換えれば、妄想とは、現実そのものである。(このあたりの考えはジャック・ラカンという精神分析家の理論を参考にしています。)
問題は、彼女らが実際に筋書き通りに行動してしまうことである。なぜそうなるのかといえば、それもまた筋書きだからである。際限のない入れ子構造の必然性を成り立たせているのは、どこか最初の妄想ではないか? そんな疑念が芽生えた。
参考文献
スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳)、河出書房新社、2015