此の好き日

「姫様は呪われた花嫁になられるでしょう。」
王女が十になる年の元日に、年老いた女官がそう予言した。
「いったい、どんな恐ろしい魔物がわたしを呪うというのでしょう?」
 王女は心も凍りつかせるほどに冷たいその宣告に身を震わせながら、それでも我が身に仇をなすものの正体を尋ねずにはいられなかった。だが、年老いた女官の答えは、王女が想像していたよりも一層恐ろしいものだった。
「何もかもでございますよ。姫様が見、聞き、触れ、或いは親しみ、或いは情を交わしたもの、その悉くが呪うのです。」
 王女には、とてもそんな事は信じられなかった。春には色とりどりの花が咲き、夏には森が緑に萌え、秋には麦が黄金に輝いた。朝日の暖かさの中で目覚める頃、様々の鳥の囀りと共に、早くも一日の業を始めた城下の町の人びとの喧騒が聞こえた。暗い闇夜にさえ星は瞬き、欠けた月も再び満ちた。音楽を好まれる国王は、しばしば宮中に楽団を招き入れて演奏させた。詩を好まれる王妃は、決まって安息日の前の夜に人を集め朗読会を催した。父様も母様も、あの年老いた女官の予言を聞き及んでおられたかどうかはわからなかったが、王女には変わる事無く優しく接してくれた。王女にとっては、何もかもが美しく、悦ばしいものに思えた。たとえ如何なる残酷で呪わしい運命が王女を待ち構えていたとしても、今はその兆しすら見えないのであった。

 王女の十五の歳が満ちた日に、沈鬱な面持ちの国王は、隣国の王子の元に嫁ぐ事に決まったと告げた。王妃はただ俯いて、石の様に黙したままだった。王女は訝しく思った。「どうして、父様も母様もあんなに悲しそうな顔をしているの?」不吉な定めを王女に告げたあの年老いた女官は、前の年の木枯らしの吹く時分に病を得て、既に亡き者となっていた。
 婚礼の準備は、粛々と進められた。その年に採れた最良の蚕から絹糸が紡がれ、純白のドレスに仕立てられた。碧の、紅の、翠の玉が磨かれ、金と銀が打たれて形を成した。女官たちは甲斐甲斐しく働いたが、何故かしら虚脱した様な、捨て鉢な様な態度が端々に感じられた。父様、母様と食卓を囲む事はすっかり無くなっていた。演奏会も朗読会も、同じ事だった。儀式の手順が何度も何度も繰り返し教え込まれたので、さすがの王女にも疲労の色が見えた。だが、何よりも王女の心を掻き乱すのは、昼と無く、夜と無く聞こえて来る、地響きの様な、或いは嵐を予兆する様な、低い唸りだった。無垢の上にも無垢なる王女には、決してその正体を理解する事が出来なかった。そして、とうとう婚礼の日がやって来た。

 婚礼の行列は、真に奇妙なものだった。花嫁の呪われし運命を知らぬ者の目には、それはむしろ葬送の列と映っただろう。とっぷりと日が暮れて地上が暗闇に包まれる頃、黒毛の馬に繋がれた漆黒の馬車が宮殿の正面に曳かれてきた。祈祷を捧げる僧侶が居並ぶ中を、女官に手を引かれた王女が進む。国王にも、王妃にも、花嫁を言祝ぐべき言葉は無かった。ただ、僧侶の掲げる松明に白く浮かび上がる花嫁の純白のドレスの背を、空ろな目をして見送るばかりだった。王女が漆黒の馬車に吸い込まれる様に乗り込むと、御者は厳かに出発を宣告し、馬に鞭をくれた。黒毛の馬は不服そうに鼻を鳴らし、のろのろと歩みを始めた。五人からなる小さな楽隊が、物悲しい調べを奏でた。その背景には、やはりあの心掻き乱す低い唸りがあった。
 青銅の門が重々しく開かれ、婚礼の行列は城下の町に滑り出た。大通りの左右には、大勢の町の人びとが詰めかけていた。しかし。そこにも祝福の歓声は無かった。皆一様に頭を垂れて、むしろ花嫁から目を逸らしている様に見えた。あの低い唸りはいよいよ高まって、まるで嵐そのものの様に馬車を包んでいた。と、ひとりの若い女が悲痛な叫びを上げながら、婚礼の行列の前に走り出た。「御覧下さい!」若い女は幼子を抱き上げていた。従者の掲げるランタンの灯に、赤く膿んだ疱瘡だらけの幼子の顔が浮かび上がった。「確かに、この子は私の穢れた行ないによって生まれた子で御座います!しかし、この子にはその罰を受けるべき理由も御座いません!どうか、」花嫁はその時初めて、今や耳を圧するばかりの低い唸りの正体を知った。町の人びとは、口々におぞましい罪を告白しているのだった。己の愚かさが、妬みが、色慾が、厚かましさが、自惚れが、如何に残酷な罪を犯さしめたかを。「あゝ。」花嫁の胸は激しく痛んだ。「けれど、」花嫁には理解出来なかった。「一体、わたしが何をその子にしてあげられると言うのでしょう?どうすれば、わたしがあの母親に代って、償いを為す事が出来ると言うのでしょう?」困惑するばかりの花嫁を抱えて、陰々滅々たる行列は環濠を越えた。そうして暗い森に呑み込まれて仕舞っても、しばらく低い唸りの已む事は無かった。

 真夜中の少し前、隣国に辿り着いた花嫁の行列は、一層露骨な憎悪によって迎えられた。隣国の人びとは容赦の無い罵声を、辱しめと嘲りの言葉を、花嫁に浴びせかけた。ばらばらと馬車の屋根を打つ音は、雨では無かった。四方八方から、石礫が投げつけられていた。御者の額から血が流れていた。隣国の衛兵達が怒り狂った群衆を薙ぎ払わなければ、花嫁の馬車は立ち往生したままに打ち壊されていただろう。やっとの事で宮中に招き入れられた花嫁の一団を待ち受けていたのは、すっかり気の滅入る様な沈黙だけだった。
 既に時は深更に及んでいるにも関わらず、そそくさと婚礼の儀式が執り行われた。広間には多くの参会者が詰め掛けていたが、誰もが揃って黒衣に身を窶して俯き、ただ忌わしい儀式が一時も早く終わる事を願っている様に思われた。司祭の捧げる祝詞だけが、空々しく広間を満たした。
「汝は、この御婦人を短き旅路の伴侶とする事を誓うか?」それにしても、王子は美しかった。「誓います。」物想いをするかの様に青褪めた表情さえ、その美しさを少しも損ねる事無く、却って或る種の凄みを加味して王子の魅力を一層際立たせていた。「汝は、この紳士を短き旅の伴侶とする事を誓うか?」王女は、歓喜の溜息が洩れるのをどうにか抑え込もうとしていた。「誓います。」声が震えていなかったか、上擦っていなかったか。一方でそれは、しおらしい女性との印象を王女に与えたかも知れなかった。「神の名の下に、この二人の婚姻を認める。」司祭が重々しく宣言した。結局、誓いを立てる花婿と花嫁の他に口を開いた者は、この司祭ばかりという始末であった。
 
 初夜の褥で、花婿は冷やかに告げた。「我は、悦びの味を知ってはならぬ身なのだ。」花婿もまた、呪われた花婿であったのだ。呪われた花婿は、呪われた身の上を淡々と語って聞かせた。美しい花婿は、その声までが美しかった。花婿の慎ましやかな、憂いに満ちた語りにうっとりと聞き惚れながら、それでも花嫁の心にはとある疑問が頭を擡げて来るのだった。「一体、この町の人びとは何に対して憤っているのですか?どうして、わたしたちがあの様な激しい憎悪に曝されなければならないのでしょう?」花婿は信じられないといった態で、大きく頭を振った。「貴女は何も聞かされておいででは無いのか。」花嫁は自らの生い立ちを、呪われた予言についてを、花婿に語った。語っている内にも、様々な疑問が次々に湧き上がって来た。「わたしには理解できません!花々は麗しく咲き、麦は輝かしく実り、鳥は」花婿は穏やかな口調で、花嫁の感情の迸りを抑えた。「花は土を痩せさせ、虫は花の蜜を搾取する。鳥は虫を啄み、猟師は鳥を射る。麦と、牛と、牧童についても同じ事が言える。それらは皆罪なのだ。」花嫁は益々感情を高ぶらせて、花婿の言葉に抗った。「それは罪などではありません!ものの理というものです!」花嫁は、膿んだ疱瘡に赤く顔を染めた幼子の姿を想い起していた。「その様な理に対してわたしたちが何かを為し得ると考えるのならば、それはわたしたちの高慢というものではありませんか?」そうでは無い、と花婿はぞっとする様な声で異を唱えた。「我々は賤しい依り代に過ぎない。唯の器に過ぎぬのだ。人びとは時折、空ろな器を己の罪で満たして、水に流さねばならぬのだ。そうしなければ、この世の中は際限なく穢されて行くのだ。」呪われた花婿は啜り泣く呪われた花嫁に背を向けて、それでも優しく休息を促した。「もう、お眠りなさい。明日の朝早くに船が出ます。」

 朝告げ鳥が呪われた一日の始まりを教えるずっと前から、人びとの怒声は宮殿の内にまで轟き渡っていた。呪われた花婿と呪われた花嫁を乗せた馬車が町に繰り出されると、昨夜の破廉恥な騒ぎが繰り返された。婚礼のために美しく着飾った若き夫婦の姿は、人びとの憎悪を更に煽りたてただけだった。この朝には、衛兵は佳く勤めを果たした。磨き上げられた槍の柄を激しく地面に打ち付けて、猛り狂った人びとを竦み上がらせた。群衆は一時静粛した。だが、婚礼の列が通り過ぎると、再び背後から容赦の無い罵声を浴びせ始めた。花嫁の門出が葬送の如きであった事を思えば、この新郎新婦の門出は重罪人の刑場に曳かれて行く有様に似ていた。その刑場たる町外れの船着き場には白い幕が張り渡され、詰め掛けた群衆の目を完全に遠避けていた。幕の一箇所が開き馬車がその姿を隠すと、花婿と花嫁の呪われた末路を見届けられぬ事を悟った人びとは、不満の色も露わに幕内にまで押し寄せようとした。衛兵の長は声も無く振り返ると、磨き上げられた槍の穂先を閃かせ、人びとの先頭に立って拳を振り上げ恥知らずな叫びを上げ続けていた男の胸を一突きした。叫びを止めた男が苦悶の息を吐いたのを合図にして、人びとは恐怖に叫びを上げながら勝手な方向へ逃げ惑い始めた。目を剥いた男が膝を折り地面に斃れ臥す頃には、船着き場は深々と静まり返っていた。

 小さな船だった。船頭が二人に、客は新郎新婦にその侍女三人と立会人の司祭、侍女が花嫁に手を差し伸べて船に導こうとするのを押し止めて、花婿自らがその手を採った。不首尾に終わった初夜の褥以来、花婿と花嫁は初めて目を交わした。矢張り、花婿は憂愁に曇る瞳さえ美しかった。花婿もそう感じたのかも知れない、蒼白な頬に一瞬紅が差した様に見えた。船頭が櫂を突くと、船は苦も無く川を下り出した。空は遙かに澄み渡り、澱み無く流れる川面には銀の魚が跳ねる。夭々と咲く桃の花は甘く香った。遠く東の国にはこの様な楽園があると、嘗て花嫁の宮殿に招かれた旅の詩人は語っていた。魂の清らかなるもの、勇敢に戦えるもの、聡明な心を以て人を施し導けるものが、そこに辿り着けると云う。わたしたちもその楽園に行くことが出来るかしら、と花嫁は考えた。わたしたちに背負わされたのは、わたしたち自身が犯したのではない罪、或いは、この身に余る不当な罪を抱えたまま、何処かでこの美しい花婿と逼塞して暮らす事は出来ないものだろうか。花嫁は微かな希望を抱いて、花婿の方へ頭を巡らせた。膝の上に組まれた両掌を凝っと見詰める花婿は、既に生きる事の悦びの一切から身を隔てている様に見えた。
 船は海に出た。花嫁は、海と云うものを初めて知った。悠々と波打つ潮、その腥い香さえ、花嫁には快いものに思われた。花嫁は陶然と海を眺めながら、侍女が赤い索条で手首を縛めるのに身を任せていた。侍女は同じ索条で、花婿の手首をも縛めた。索条の先には重い砂嚢が結えられていた。切りたった岸壁の鈍色の岩肌が霞むまで沖に出ると、司祭が短い祝詞を捧げた。三人の侍女が並んで船縁に立った。「御先に参ります。」年長らしい侍女が、努めて平静に辞去を告げた。「ごゆるりと参らせませ。」そうして、三人諸共に海へ身を投げた。「さあ、共に参りましょう。」花婿は、花嫁と固く指を絡ませた。花婿に曳かれるままに立ち上がらされた花嫁は、身体が海面に傾いてゆくのを感じた。趺が船縁から離れる刹那、花嫁は叫んだ。「嘘です!」赤い索条の縛めが解けた。塩辛い水が花嫁の喉を塞いだ。手足を踠かせ呪われた運命に抗いながら、しかし王女は次第に意識が遠退いて行くのを覚えた。海面の遙か下に、驚きに大きく目を見開き王女に指を伸ばしている王子の姿が見えた。それはとうとう結ばれる事の叶わなかった花嫁に救いを求める様でもあり、王女の卑劣な裏切りを詰っている様でもあった。だが、呪われた王子の言葉は泡と消えてもう聞こえなかった。

 旅の者は村に幸いを齎すと言う。そんなものは迷信に決まっているが、確かにその女は良く働いて村の者を援けた。ある雪融けの頃にふらりと現れて、納屋に泊らせてくれと言った。翌朝早くには、誰に命じられるでもなく家畜に餌をやっていた。水を汲み、洗濯をしていた。昼には、牛馬の如くに畑を耕した。男手の多くを労役に持って行かれていたので、村の者は大いに有り難がった。夜も遅くまで休む事無く、繕い物や編み物をしていた。それでも暇を見付けては、俺に読み書きを教えてくれた。遠い国の物語をしてくれた。村の誰よりも顔は赤く灼け逞しい腕っ節をしていたが、女には俺ら野の者とはぜんぜん違う利発さや品の良さがあった。女は、自分の生い立ちを何ひとつ語らなかった。そうして三度目の春になった。まだ少し肌寒い夜の事、女は河原の木にもたれて歌を口ずさんでいた。切ない調べにのせられた奇妙な言葉は、何故だか俺をうっとりさせた。それに、女は美しかった。

 あかりをつけましょぼんぼりに
 おはなをあげましょもものはな

「なあ、俺とずっと一緒に暮らしてくれまいか。」俺は、女に求婚した。月明かりに赤く灯るような花の甘い香りに、俺は酔っていたのかも知れなかった。「そうね。」と女は応えたけれども、目は遠い星々をぼんやりと眺めていた。俺は恥ずかしくなって、一散に駈け出した。
 
朝働きを終えた女は、もう薄っすらと汗をかいていた。ずかずかと女の方から近付いて来ると、気不味くて目を合わせられぬ俺に一枚の紙札を差し出した。そこに願い事を書いてみろと言った。何でも良いからと言うので、結局俺は昨夜の厚かましい願いをまた書いていた。女は俺の紙札を取り上げると、読みもせずにくるくる丸めて、藁で編んだ様な人形の腹に収めた。そうして、自分の分の人形と赤い紐で結び合わせた。朝餉の後、女は俺の手を引いて川縁に連れて行った。女は、赤い紐で繋がれた二つの人形をそっと川に浮かべた。女は俯いてしばらく何かを呟いていたが、俺はゆらゆらと流されて行く人形をぼんやりと見送っていた。やがて顔を上げた女は、満面に眩しい様な笑みを浮かべていた。「今日は好い日ね。」と言って、女はまた畑に出掛けて行った。その背中を見やりながら、俺は女に認められたのだと思った。俺は踊り出したい気分で、その日一日精を出して働いた。

 夕餉の刻になっても、女は戻って来なかった。


#ひなまつり #短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?