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人の間に生きる

渋谷のスクランブル交差点で衝突する人は!

例えば渋谷のスクランブル交差点では、ほとんど衝突する人がいないとユーチューブを見た海外の人の間では話題になっているらしい。しかし日本人の感覚では、たまに衝突する人はいるだろうけど、普通は衝突しないんじゃない、といったところかも知れない。私はこの状態を、人間の生き方として理想ではないかと思っている。人間と人間はいつもどこかで行き会い、出遭うものだから、衝突しないように多少注意して歩けばどんなに混雑していてもあまり問題はない。強いて言えば、少し人と人の車間距離、車幅感覚ではないが、人間距離と人幅感覚に注意してくれたら、互いに快適に生きられるのではないかと思う。

「車幅感覚」ではなく「人幅感覚」が必要

ところが世の中、そんな都合の良いことばかり起こらないので、たまに全く周りを見ないで、人と人との距離なども無視して、好き勝手に動く人がいるから、そこかしこで人間どうしの衝突が起こる。車の場合は一時的で物理的なものだが、人間の衝突は心理的なことがあるので、いつまでもジクジクして関係が改善しないし、場合によっては永遠に解決しないこともある。だから、人間どうしの不要な衝突を避けようとするのは正しい。そこで身に着けておきたいのが人間としての「人間距離」と「人幅感覚」の習得だ。車の場合は、ある程度の経験で「車間距離」や「車幅感覚」がつかめるようになるが、やはり人間の場合は、個人のセンスが大切かも知れない。

人と人の間には一定の距離も必要

人間距離や、人幅の感覚は、衝突を避ける意味で重要だが、またその一方、人と人がくっ付いていいのは家族や近親者、それにパートナーだけで、それ以外の人は一応自分のプライベート空間が必要だと思う。互いのプライベート空間を尊重するのも、円滑な人間関係には不可欠で、人間としての当然のマナーと言える。ところが、私は人から私のプライベート空間を侵される傾向が強い。というよりも、自分を取り巻くバリケードがいつの間にか希薄にされていて、アッと気が付くと、私の懐に入られてしまうとことがあるのだ。私は、周りの人にガードが甘いと言われることが多いが、どうもこの辺りのことを指摘されているようだ。これは私が必ずしも不注意であったりといったことだけではなく、相手の人の懐に入り込む技量が優れていることもあるのだと思う。

モラハラも学校でのいじめも、人との距離の在り方を誤解

それも人の懐に飛び込んで、お金の融通を頼むといったレベルではなくて、とても深刻な悩みを抱えた人が唐突に懐に飛び込んでくるのだ。だから懐に飛び込まれてしまうと、多くの場合こちらも命がけで相手に対応しなければならない。といってもそんなに簡単に懐に入られるわけではなく、深刻なのは、せいぜい生涯に何度かというレベルのことだ。私も相当なエネルギーを注いで、懐に飛び込んだ人を助けようとするのだが、解決できた時は私もうれしい。「人間」とは人と人との間で生きる存在だと言われるが、もっと言えば、常に人と人との距離を調整する生き物だと言えないだろうか。
世の中で問題になっているモラハラも、パワハラも、学校でのいじめだって、基本はモラルの問題だが、現実的には加害者が人との距離の在り方を誤解しているか、適切な距離を取ることができないことでもあるのかと思う。つまり人として周囲と円滑な関係を築くこととは、悪く言えば、世渡りがうまいということになるが、よく言えば、人と人との間で適切な間合いを取ることが上手ということではないだろうか。つまり人生の成功者とは、人と人との距離の取り方に優れている人だと思うのだ。


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