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【相互ブックガイド:いま「公共」を考え語るうえで勧めたい一冊】オムレツとアゴラの間―意識高い系は胡蝶の夢を見るか

長い前書き

『「図書館」(仮称)リ・デザイン会議 実行委員会』のミートアップに参加している、てか実行委員の末席である(「末席を怪我している」となったので表現を変えた)。

 その話し合いも早いもので、第0.5回目。5月上旬に立ち上げ、この間、第0回、運営会議を行い、先日が、第0.5回のリ・デザイン会議であった。大体二日にわたりオンラインで議論が行われ、「コロナ禍」をきっかけとしつつ、向き合い、コロナ禍を単にやり過ごすのではなく、「いままで」と「これから」と「いま」を、そして「図書館」と呼んでいるものの今後の30年を見通そうとする。


 毎回、たいして貢献もできず、しいて言えば、手拍子をたたいているつもりではあるものの、どうも元が音痴だけにリズムを乱していたらごめんなさい。さてその二日目で、【相互ブックガイド:いまこのテーマを考え語るうえで勧めたい一冊は?】という企画をしてみるのはどうだろうという提案がなされた。図書館の中の人も外の人も、考えるためのヒントをシェアしようという、その発想自身も示唆的な提案なんで、私も、「公共」について紹介するものを、「公共性警察」の末席として書いてみます。でも一冊といいながら二冊。


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  私がこの本を最初に手に取ったのは、学生時代で、旧版で文庫じゃなかったものを図書館で手にして、その時はフーンという感じで正直ちゃんと読まずに目次やあとがきなどをパラパラっと見てすぐ返却したと思いました。

 ちゃんと読んだ切っ掛けの話をしますと、その数年後です。そのあと、紆余曲折あり、地域開発コーディネート的な仕事、業界新聞記者、文学部研究生などなどを経て、社会科学系大学院に入った時に自分の研究テーマの一部に、「公共性」なんて当時の流行言葉を入れちゃったもんだから、さあ大変、とりあえずは、後でもう一冊紹介するユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換(第二版)』をはじめ、「公共性」といえばハーバーマスだろうということで、ハーバーマスの本を読み漁ることになり、来る日も来る日も読んでいたころにさかのぼります。で、ご存じの方はご存じなんですが、ハーバーマスさんの顔写真をwebで見ていただければいいのですが、来る日も来る日も彼の本を読んでいたある日、「嗚呼、俺はこのおっさんの本をひょっとすると死ぬまで読むのかもしれない。嗚呼、読むかもしれない、読むかもしれない…」となったとき、急遽閃いて、「あ、そういえば『公共性の構造転換』の第一版が出された1962年の少し前に、公共性に関して言及してたアレントがいたな」と思いだし、改めてアレントを検索してみたとき、彼女の若いことの写真を見るにあたり、「おお」となったのがきっかけです。

  ちなみにですが、今回紹介する、『人間の条件』と『公共性の構造転換(第二版)の出る前のですが)』は、日本語版の翻訳がどちらも1973年ですし、『人間の条件』の学芸文庫版が出版されたときは、これまた、『公共性の構造転換(第二版)』が出版された年でもあって、日本においては常に似たようなタイミングで出版されかつ問題意識を感じていた人たちが、翻訳した研究者や出版側でも共有されていたのかもしれません。


一冊目。ハンナ・アレント著、清水速雄訳『人間の条件』(ちくま学術文庫版)

 いわずと知れたハンナ・アレントの代表作の一つですが、原著は1958年に書かれており、ちょうど、その一年前にはリトルロック事件がありまだまだ黒人を含む人種差別政策が全米各地で行われてましたし、またその少し前からは、悪名高い赤狩りでアレントなどのサロンでつながりもあった映画界や文芸界の人々の発言に対する抑え込みも経験された時代です。

 一方で、ロバート・N・ベラーの『心の習慣』によればこの50年代はアメリカ国内で最も消費社会が急速に実現しある種の世代にとっては豊かさを象徴する黄金期でもあった、サイレントマジョリティーにとっては大量生産大量消費の時代でもあったようです。この豊かな時代に、アレントは一方で、国家や会社組織、あるいは労働組合のような団体などが人々の課題に対しての「声」を代弁し強調するという、コーポラティズムにおける自由な発言の場の限界をまざまざと見、さらにはその中でのコーポラティズムにかかわる組織によって効率的に保障された豊かさを見るわけです。そうした状況の中、彼女が起点としたのが、労働、仕事、活動という人間の三条件であり、そうした条件のそれぞれの意義を、他者とのかかわりの違いと踏まえて、一人一人の「顕れ(あらわれ)=アピアランス」、つまりは足元から何かの声を語ることこそが、「公共を拓く」し、生活に回収する議論の共同というものだけでは、コーポラティズムに組み込まれてしまう。それをどうやって開いていくのかの試みだったといえるでしょう。

 もちろん時代的な差は大きいわけです。大体が、やはりファシズムの記憶がまだあるし、福祉国家的な意味での肥大した国家体制の時代です。それこそ時代としては、冷戦の渦中真っただ中です。そうした状況はのちに、ネグりとハートが<帝国>と表現したグローバル化の中で立ち上がった権力状況という、現在抱えている状況とまったく異なっておりますし、また、そのアレントが注視する、「アピアランス」を担保する活動が、スピーチという要素で語られていること自体がある種のエリーティズム的なものを感じてしまい、むしろもう少し「フラット」なトークのような視点での取り組みに対して意図的に触れていないかのごとき違和感はあります(このあたりの議論は、のちに斎藤純一さんや、『サバルタンは語ることができるか 』のG.C. スピヴァクにより「親密圏」の問題と公共性をどうかかわらせるのかという論点として深められますがここでは割愛)。しかしながら、それでも、なお、何か自分の所属する組織を背負わなければ世界に向かい合えない、あるいはそういう組織の代弁でなければ物言えないかの状況がいまだにあるようであれば、アレントの言う「アピアランス」が表出することもなく、また世界も閉じており、つまりは、そうしたものは「公共」と呼ばれない、ということであれば、やはり読む価値のある一冊ではないかと思うのです。足元から、「公共」という意義を考える、そうした一冊としてこちらを紹介しますし、ある種のエッセンスも含めて、アレントが定義した「公共性」というテーマに即して、逆にこの一冊に向かって様々な文明の歴史の補助線が引かれているといってもいいでしょう。ただし、随所に読みにくいとは思います(例えば当時の文芸界の抱えたゴシップなどへの揶揄を織り交ぜてたり、古典的な様々な用語がちりばめられたり、さらには実存主義的なタームが出てきたりなどいろいろな罠もしくは沼があるのですが)、それを差し引いても、読み取れるべきものは十分にあると思うのです。


二冊目。ユルゲン・ハーバーマス著、細谷貞雄・ 山田 正行 訳『公共性の構造転換(第二版)』(未来社)

 次に、世界に誇る(しゃくれた)知識人・哲学者の一人、ユルゲン・ハーバーマスの書いた、その名もずばり、『公共性の構造転換(第二版)』です。ちゃんと本の名前に「公共性」の単語が入っています。だから、公共の議論を考えるのに大事であるというのはわかりやすいと思います。原著は、1962年、なので、アレントの『人間の条件』原典が出版されてから4年後のものとなります。そしてこの第二版のタイトル関連情報として、「市民社会の一カテゴリーについての探究」という副題がついています。

 まずこの本の第一版は、1962年に原著が出版されています。いわゆる冷戦下の西ドイツにおける現状を踏まえていますが、おそらく、戦後復興などから考えると、産業社会や消費社会の展開はアレントが取り上げた1950年代のアメリカ社会と共通した文脈を持ちながら、一方では、戦争とナチズムとで失ったものに対しての反省的な姿勢が問われていた時代の論考かと思われます。ハーバーマス自体は、だいぶ後になってかつてヒットラーユーゲントだったことをカミング・アウトしたりもしますが、個人的にもそうしたナチズムを生み出す前の「成熟した市民社会」と、ナチズムと、冷戦下の消費社会でかつ福祉国家という、アレント風に言えばある種の「全体主義国家」の連続を問題にしていますし、またこの本の後半で言及していますがメディアなども含めた批判的な場の喪失なども課題として書かれたものだといえるかと思います。

 さて、この本の内容ですが、「構造転換」というタイトルにそれは集約されているといえるでしょう。「公共性」というもの自体が、歴史の文脈で見ると構造を持ちそれが転換してきたと。例えば、市民的公共性という、いわばリテラシーもあり政治に積極的にかかわってきた「近代的市民像」というのは実際リアルであって、コーヒーハウスを代表する社交場やサロンを形成し、ラブレターを見せ合う形から恋愛小説など文芸的な近代小説につながる社交場にかかわったり、そのようなものと時をおないくして連動したかのように同時に法定的なものを記録として作文し残していき、結果公文書とのちに言われるような、ある種の文字による社会的正統化の仕組みを公共性のフォーマットとして生み出してきました。つまりは、今でいう「公共的」なイメージとして思われるような事柄自体も、ある種の歴史的な構造を持ち幾重にも微妙にバージョンアップしてきたものだというようにも取れるかと思います。ただし、その「近代的市民像」というのは、もちろんジェンダー的にも、特権階級的にも閉ざされたものであり、オープンなものではなかったわけですが、そうした姿勢自体も時代が下ればまた問い直されるようなもの、つまり萌芽のようなものを内に含み後に展開されていく、そうしたものであったのだと。

 そしてさらに、原著が出版された1987年の第二版では、前書きに新たにアソシエーションという市民のつながりが付け加わりました。これは冷戦下ではありましたが、一国内の冷戦の検問の象徴であったベルリンの壁を、ある種の市民たちの勘違いも含めた広範な行動によって、事実上検問を掻い潜り行き来できるような担った事実をや東欧の自由化の動きに連動するものだといわれています。以前、第一版の最後では、冷戦下の西ドイツが結局、前半の章で描き出した近代的な市民像から受け継いできた公共的なことにかかわる場が、豊かさの消費社会と政治的には二大政党制にくみ取られ、これまたある種のコーポラティズムに陥っていた状況の批判として描かれ終わっていました。その部分に対して、第二版では、前書きを付けたことにより、改めて、冷戦と形骸化し制度化された「公共を語る場」のアップデートの現実として、当時のハーバーマスには映ったのかもしれません。

 実際に、ハーバーマスの本では、タイトルは『Strukturwandel der Öffentlichkeit』なのですが、この本を英訳したときに、どなたの英訳からなのか、公共性を指すドイツ語の「Öffentlichkeit」が、「public sphere」となり、私も英訳版のものも参照して、なるほどと、わかりやすく理解できました。つまりは、「公共性」という概念には「(何が)公共的なのかについて(語る)場」というニュアンスが含まれる、ということを英語圏の方々は補って理解していたようなのです。日本語では、この空間的な意義を読み取る場合は、公共圏と訳されました。とすれば、『公共性の構造転換』は、結局この点で最初に紹介したアレントの『人間の条件』と重なる課題を、より細かな歴史的な論証を積み重ねて「何が公共的な場だったのか」という過程を再構成して見せてくれ、またかつ人とのつながりがつながること自体で大きく変化を及ぼしたという歴史的事実を第二版で付け加えてさらにアップテーとして描かれている、そうした意味合いを持つ本といえるでしょう。

  書くこと、読むこと、つながること、そうしたことにかかわり、かつ「公共」を話題にしている本だからこそ、図書館関係で関心がある方にはひとまず、公共に関してのテーマではまず読んでおいてほしいなと思った次第です。

おまけとして

 さて、おまけですが、最後に、実は、日本においての公共性のお話もしておきます。日本では、この分野では、むしろ社会的共通資本という議論がありました。公共政策学・環境経済学での第一人者の宮本憲一さんによるものです(ルーツをたどると羽仁五郎さんの『都市の論理』もあるかもしれませんがここではおいておきます。またあるいは、宇沢弘文さんの議論も広い意味で重なるかもしれません)。

 宮本さんは、『公共性の政治経済学』(自治体研究社<現代自治選書>、 1989年)の中で、日本で公共性が問われる際には、もっぱら国家、行政の計画が権威的に正統化されて行われてきた近代化の歴史に触れ、「公事性」が日本の場合「公共性」として理解されてきた歴史を踏まえたうえで、ある種の「共同性」に基づく「公共性」を模索します。しかしながら、その共同性やいわゆる「何が公共かをめぐる場」の言説としては、やはり詳細な具体例を示したとは言い難かったと思いますが、「公共性」というときに「公事性」を持ってしか言いえないという指摘自体が、ある種の批判を持ちえたのは事実でしょう。さらに、宮本さんと少し方法論を異にしますが、環境社会学のある種のグループは、入会地のような共有地を共有管理地でかつ私的に所有しきれない生産地「コモンズ」としてとらえ、そのような<財産のようなもの>の社会所有をヒントに、いわば経済学上の「公共財」を考えようとしていきます。こうしたアプローチも「公共性」を考える際の一つのアプローチとしておまけで紹介しておきます。

 さらに、花田達朗さんによって、前出したハーバーマスの公共圏をネットに結び付けて考える論客もあり、さらに海外でも、ジェフジャービスは、花田さんに近い立場で『パブリック』というサイバー上の公共圏的な可能性を模索しています(もちろん一方でのキャス・サンスティーンの熟議にインターネットが適さないという指摘やデビット・ライアンの監視社会の議論も踏まえて後の出版です )。

 こうした観点から、高野 清弘 ほか(編『知的公共圏の復権の試み』 など、知的なコモンズと公共圏を結びつけてくる言説は、むしろ現代ではいろいろと展開もされているし、政策用語としての「新しい公共」や、公共哲学などの議論もここ20年でかなり積みあがってきたのではと思います。

 こうしたことを考えるにせよ、紹介した二冊は必ず参照しておいて損はないと思いますし、また仕事しながら読むにはなかなかのガチであり、特にアレントは、独特なレトリカルな難しさもあるでしょうが、でも、読んで「金返せ」とか「時間返せ」はないと思うのです。なぜならこれらの本は、数百年、もしくはひょっとすると千年単位の思考のある部分を圧縮して垣間見せてくれるようにも思えるから。

とりあえず、公共警察の巡回現場からは以上です。


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