熊と私

振り向くと後ろに熊がいた。
右前足から繰り出された突きを、間一髪で避けたわたしは、それを掴み、自分の腕を相手の逆関節方向に振り上げた。

効くはずもないと思っていたが、鈍い音がし、微かな手応えを感じた。このままのリーチを保つのは不味い。いっそのこと近付いてしまえば、組みつきだけを避ければ良く、後ろへ回り込んで逃げることもできるだろう。

取っている腕を使って体を引き寄せようとしたが、体重差でこちらが熊に向かう形となった。

構わず振り上げた腕を使って顔面に肘と拳を入れ、胸の辺りを掴んだ。一連の流れで上半身に注意を向けた隙に、直立している後ろ足を払ったが、びくともしない。間髪入れずに遠心力で倒そうとすると、逆に相手が身体を捻り、容易に振り解かれた。左の薙ぎ払いが来たのでしゃがんで回避。頭に少し掠って皮膚が切れたが、構わず踵を返して逃げる。

わたしは、全力で走りながらザックのショルダーハーネスに取り付けたホルスターから催涙スプレーを抜く。夢の中だと上手く走れない。少しでも速さが欲しかったため、同時にウエストベルトのバックルも外し、ザックを体から振り解いた。

風切り音が響き、ザックは地面に着地する前に吹き飛ばされたことが分かった。後ろを確認する余裕はなかったが、草木に激突した音と共に、水がぶちまけられた音も聞こえてきたことから、重量15kgのガッシャブルムはおそらく薙ぎ払われた瞬間に大破したであろうことが分かった。自分の頭部に当たれば、まず即死だ。少し安心した。

わたしが振り返って催涙スプレーを構えると、意外なことに熊はそこまで近付いてはいなかった。おそらく集中が切れ、想像が追いつかなくなったのだろう。もう少し逃げようか迷った道の先は崖になっていた。

視線を正面へ戻すと熊は目の前にいた。
左前足の薙ぎ払いを後ろに飛んでかわし、わたしは宙に浮きながら催涙スプレーを噴射した。視界は走馬灯のように加速し、身体はゆっくりと落下していく。顔面に催涙液を受けた熊は、苦しそうにその場に留まり、追ってくる様子はないことが分かる。その様子を笑顔で見届けながら、意識を失った。

目が覚めるとそこは病院のベッドの上だった。熊がこちらの顔を覗き込んでいた。わたしは、四六時中身につけているナイフやタッチペンの類に加えて、なぜかFAのサコッシュを首から下げていた。右腕は動かなかった。窓際の椅子には山岳部のOBが座っていて、「ザックをおろしちゃダメだよ〜」と非難された。

正確に言えば、入院患者の集団の病室の中だったが、自分達を除いて人の気配はなかった。まだ一度も使っていないのではないかと思えるほど、他の病床は綺麗に整えられていた。森の中と変わらず空腹だったので、食事の心配をしていると、話は終わっていた。OBから視線を外し見上げるも、相手はずっとこちらを見ている。

逡巡の後に、眼球狙いで顔面を掴もうとしたが、相手はこちらを覗き込むのをやめることで、それをかわした。すばやくFAからハサミを取り出し、体に向けて刺してみたが、効かない。自身の握力が著しく下がっている印象を受けた。そのため、少し時間はかかるが首のナイフを口で開けて咥え、切りつけにいった。

自分の頭は相手の体に到達することは叶わず、ベッドの手すりに叩きつけられた。衝撃で口はナイフから外れ、ゆらゆらと情けなくぶら下がっていた。こめかみに痛みが走った。頭の傷が開いたような気がしたが、それはなかった。

落ちた視線の先には自分の腰につけてある、いつもの装備があった。手早く防犯ブザーのピンを引き、病室内に130dbのアラームが鳴り響く。当然、誰も来ない。

「どうしてこうなったと思う?」
プログラムが上手く動作しなかった時と同じ調子で、手の主は語りかけてきた。頭を掴まれている感触から、その手は人間であることが分かる。

拘束は解放され、わたしは答える。
「感謝を怠ったからですか?」
今までと同様に、即答される。
「違う。」

「強さを恥じたからだよね。」
なるほど。と満足したわたしは、しかし改心することはなく、ナイフで喉を切って自害した。

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