新書400pの同人誌を書いた時の話(後編)

前回の記事を読んでくださった方、ありがとうございます。

参考になったかどうかはさておき、思ったよりいろんな方に反応いただけて嬉しかったです。「スケジュールを立てたとしてもそれに沿って書くだけで才能」みたいなご意見をいただいたりもして、真面目にやることに対する意義みたいなものを見出せたのは発見でした。

さて、後編ではもう少し中身のところについて書いていこうと思う。再三で申し訳ないが私は別にプロではないし、プロになりたい人とか、もっと上手い小説を書きたい人とか、そういう人には向かないと思う。これはあくまで、素人が努力すればとりあえず長編を書き切ることはできるということを示したいだけだ。あとこうすれば「誰にでも書けるよ!だからチャレンジしてよ!」と言いやすくなるかと思って。

第3章:「文章書き」は長編小説に向かない

さて。突然だがあなたは短編と長編、どちらが得意だろうか。あるいはどちらが好きだろうか。そして、好きな作家は短編書きだろうか。それとも長編書きだろうか。

文芸作家で、好きな作品を書く人がいる。私はこの方の短編が大好きで、短編集をたくさん持っている。短いお話の中で起承転結がはっきりしており、驚きがあったり伏線の回収が見事だったり、とにかくエンタメとして完成されている(実際短編ドラマになったりもした)

しかし、どうもこの方の長編だけは面白いと感じられない。

お話の構成はいいし、文章も綺麗だ。だがとにかく私にとっては「面白い」と思えない。途中で飽きてしまうか、読み終わったものも記憶が薄いのだ。基本的に読んだものは詳細まで覚えていると思っていたが、この方の作品だけはとにかく頭に残らない。

理由をずっと考えていて気づいたのは、「長編に対して求めるものが違う」ということだ。私は仮に5分で読める短編があったとして、それを5分の価値だと定めた場合、「15分の長さで読める中編に関しては、その3倍の濃度の話を求めてしまう」のである。私はこの方の物語が好きなのであって、文章を好きなわけではなかったのだ

たまに、長編字書きが「書けば長くなるから」と言っているのを見かける。個人的にはこれは間違いだと思っている。ただ長い文章が続いているものは、5分で読める短編を引き伸ばして15分の長さにしただけで、15分で読める濃さではないのだ。(最近思うのは、つまらない映画とかも割と物語を薄めて映像美だけでもっていっている傾向があるということだ。物語の濃さというのは、あらゆるコンテンツにおける自分の中での指標になった。当然映像美を求めている人もいると思うので、一般的な指標になるとは思えないが)

つまり、長編には大きく分けて2種類存在する。

①短編の濃さの物語を引き伸ばして文章量を増やしたもの

②物語の濃度が長編としての濃さになっているもの

これは商業誌でも同じだ。ここで断っておきたいのは、何も①が悪いと言っているわけではない。①の長編が存在するのは、文章で魅せるタイプの小説だからということだ。比喩表現やキャラクターの心情描写が多く、物語として大きな事件が起きたりするわけではないが、その文章を美味しくいただくものである。いわば素材の味を生かした高級な一品、と言ったところだろうか。

文学作品は比較的こういうものが多い。しかしこれは肌感覚だが、こういったタイプの小説は非常に難易度が高く、作者の技量が如実に現れてしまう。当たり前と言えば当たり前だが、文章のうまさがダイレクトに伝わるからだ。素材が微妙であれば高級な一品にはなり得ない。寿司と同じである。

しかし同人誌に至っては大抵は素人が書いた小説だ。素人が書いた比喩表現ほど読んでいて作者の「この表現いけてるでしょ」感が透けて見えるものはない。(悪口ではないです)3万字〜8万字程度ならそこまで読んでいて「おや?」と思うことはないが、新書400p、すなわち28万字も読まされた読者は、流石に微妙な気持ちになるのではないだろうか。素人の下手な比喩表現込みの情感たっぷりな文章を28万字は、もはや拷問であると私は思う。何より商業誌よりも高い値段の同人誌28万字読んだ末、物語の濃さが短編と変わらなかったら、流石に損した気分になるのではないだろうか。

つまり、同人誌として目指すべき長編は、「素材の味を生かした高級な一品」ではなく、「一品一品はまあそれなりだけど品数が多くてお腹いっぱいになる定食」であるべきなのだ。

さて、ここで言う「物語の濃さ」とは何か。

それは、物語の中で起きる事実(=ファクト)の数である。

プロットを立てる人、立てない人、いろんな人がいると思うが、私はまず初めに話の流れを考えるとき、このファクトの数を調整する。

具体例を出そう。

A×Bというキャラの話を書くとする。ここでテーマにする物語を「なんやかんやあってAとBが結ばれる話」だとすると、ここでいう一つのファクトは「告白して両思いだと発覚する」になる。

ファクト1:告白して両思いだと発覚する

例えばこれが1000字程度のSSであれば、このファクト1だけで十分だ。AがBに告白するというシチュエーションの説明、なぜBのことを好きになったのかの背景の説明、そしていざ告白するシーン・・・と、書いていけば1000字にはなるだろう。

しかし、これで3000字書こうとすると、一気に話が薄くなる。情感たっぷりに書かないと間が持たない。おそらくは多くの人がここで悩み「どうしても話が先に進まない」とか「3000字までいかない」と考える。比喩表現が得意な字書きが「文章書けば自然とそのくらいいくよ!」と言ったところで話は一方通行になるのは目に見えている。

ならばどうするか。

ファクトを増やせばいいのである。

つまり、「なんやかんやあって」の部分を膨らませるのだ。例えば「AとBが喧嘩する」というファクトを追加しよう。

ファクト1:告白して両思いだと発覚する

ファクト2:AとBが喧嘩する

話の流れでは、「AとBが些細なことで喧嘩をして、AはBに仲直りを持ちかけようとするもBは行方不明になってしまう。必死に探すA。やっとのことで見つけた先で、好きだと告白する」こうすると、大体3000字程度の話になる。

私は文章力はないと自負している。というか、ほとんどの人はよほど上手くない限り文章力だけで勝負をしようとするのはやめたほうがいいと思っている。何しろ話が進まないし、話が膨らまないし、とにかく書くのがしんどい。読む方もしんどい。であればこの方法を諦めて、「ファクトを増やす」方に注力したほうがいい。少ない骨に肉をつけるとなると肉の量を増やさなければならないが、骨が多ければ肉は少なくて済むのだ。そのほうが絶対楽だ。

この調子で増やしていくと、3000字〜5000字ならファクトは2つ、5000字〜10000字ならファクトは3つくらいが妥当だろうか。

では、28万字の時はどうするか。ファクトを増やさねばならないが、闇雲に増やしたところで話にはまとまりがなくなる。なので段階を分ける。

大きなファクトを起承転結で並べ、その中でさらにファクトを3つ入れる

という手法だ。

先程の「なんやかんやあってAとBが結ばれる話」で例え、時系列で並べてみる。

起:Aが今いる環境から去ることが決まる

承:AとBが喧嘩する

転:Bの知らなかったAの一面が発覚する

結:告白して両思いになる

400pの話を書こうとする場合、それぞれで100pずつ、すなわち一つのファクトで7万字は書かなくてはならない。とすると、仮に「起:Aが今いる環境から去ることが決まる」だとすると、その中でさらに別のファクトを3つ以上用意しなければならない。

これを踏まえて、28万字かける(であろう)プロットを組んでみた。流石にAとBだけだと具体化しないので、仮にAをサラリーマン(先輩)Bをサラリーマン(後輩)とする。

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どうだろうか。なんだか28万字書けるような気がしてくるんじゃないだろうか!

これは個人的な趣味だが、これだけの長い話を書く上で、私は必ず2つ以上の仕掛けをするようにしている。それが今回で言うと「二人で進めていたプロジェクトに関わりのある店」というポイントだ。この店は、二人の関係性や物語にそれほど多く登場するわけではない。しかし感情の変化のきっかけになる舞台装置として役に立つ。さらに言えば、「物語の冒頭(起)で出てきたさりげない何かが後半めっちゃ活躍する展開」は、みんな大好きなのだ。いわゆるエモさというやつだ。

そしてもう一つは、「女性社員がライバル会社からの刺客だった」というファクトだ。これが実は結構重要なポイントで、長い物語を書くとどうしてもご都合主義展開が出てくる。いわゆる「たまたま目撃してしまった」「偶然出会ってしまった」とかそういうやつだ。それはそれで夢があるし、ロマンがあるとは思うが、そのご都合主義展開に実は理由があった、という方が、圧倒的に物語が濃くなる。つまり今回の話で行けば、「AがBを諦めようとライバル会社からのオファーを受け入れて退職を決意した」というファクトが、Aの感情的な部分だけではなく、Aを引き入れようとするライバル会社の思惑だったということになるのだ。こうすることで物語の濃さだけではなく、「なんでAは最初Bのこと諦めちゃったんだよ!」という読者のモヤモヤを解消することもできる。

同人誌においては、とにかくキャラクターの解釈を壊さないことが大事だと個人的には思う。しかし長い話を書いたり、書きたい話の都合上どうしてもキャラクターにらしからぬ行動をとらせてしまうこともあるだろう。しかしこれは、下手すればヘイト創作にもなりかねない。推しはいつでも最高でいてほしい。そんな時、こうした「外的要因による説明」を入れることが非常に有効だ。

さて、ここまで色々と書いてきたが、要するに「美しい文章を書きたい」人は、長編書きには向かないんじゃないだろうか、ということだ。もしそんな人が何度か長編に挑戦して挫折してしまったとしたら、おそらく「美しさの維持」が困難になったか、「他に書けることがなくなった」んじゃないかと思う。

素人が同人小説を書こうとするとき、闇雲に書き進めてもしんどいだけだ。話を書き続けるしんどさもあるし、なかなか進まないしんどさもある。前編のスケジュールに関わる話でもあるが、長編を書く場合、ページ数で分割するのが最も書きやすいんじゃないかと思っている。

仮に新書400pであるなら、まずこれを起承転結に4分割する。そうすると一つの大きなファクトで100pになる。次に小さなファクトで3~4分割する。そうすると上記図の方で示した小さなサブタイトルごとに25p書き進める計算になる。これで大体1.5万字〜2万字くらいだ。例えば「Aは非常に優秀でライバル会社からのオファーをもらっていた」という事実でそのくらい書こうとするなら、「AとBの仕事内容の中で、Aがいかに優秀かのエピソードを3つ入れて優秀さを表現し、その上でライバル会社がAを欲しがる理由や会社の背景(大きなコンペがあるとか)(業績が落ちてるとか)を表現し、ライバル会社からメールか電話がかかってくるシーン」を書けばいい。A視点で書けば「欲しがってもらえるのは嬉しいけどライバル会社には行きたくない」という心情ベースで書けばいいし、B視点で書くならば「優秀な先輩の様子がおかしい。あの電話が来てからだ」という不信感をベースにして書いてもいいだろう。

余談だが、こうして細分化すると視点がバラバラになりがちだ。結構読者は混乱するので、私は基本的に最初から最後まで視点を統一するか、起承転結それぞれで視点を分けるか、神の視点かのいずれかで書くようにしている。そうやって事前に明確に定めておけば、いざ書き進めるとなった時にブレにくいし、筆が止まることもあまりない。

ここまで組めば、あとはひたすらに書くだけだ。ここから先は根気の世界なので、前編で組んだスケジュールの通り、必死に頑張る他ない。

しかし、書くべきことが明確・かついくつもの要素があるので「書くことがなくなる」といったことはなくなるんじゃないだろうか。書かなきゃいけないことばかりである。なにしろそのファクトに基づくそれぞれの心理的変化が必要になってくるから。

どうだろうか。書けるような気がしてこないだろうか(二回目)(刷り込み)

第4章:世界を構築するたびに脳汁が出る

自分らしさをどう表現するか、というのが、おそらくは字書きの永遠の課題なんじゃないだろうかと思う。

最近字書きと話す機会があったのだが、文章というのは、視覚情報はまったく同じだし、同じ日本語である以上表現方法もそこまで特徴的なものは存在しない。3章で述べたように「文章で勝負」できるのはごく一部の天才のみだと思うし、そういう人たちは大抵プロの作家になっている。

余談だが、「爆発音がした」という内容を色々な作家で書いたらどうなるか、というのをまとめたものがある。これは当然その作家たちによる作品ではなく、二次創作として書かれたものだが、読んでいくとわかるなあと思う。それだけ、その作家たちの文章というのは個性的なのだ。(絵師さんもたまに〇〇風に書いてみた、というのをやっていると思う。それと同じである)

同人小説において、そうしたところではなくプロットや物語の濃さで長編を書き切る、というのは、ある意味で個性を消していることなのかもしれない。それでも、やはり自分らしさを出していきたいと思うのは創作をするものとしてどうしても避けて通りようがないことだ。

だからこそ、長編を書く上においては「演出」が必要だと思っている。世界をどう構築し、どう魅せるのかという話だ。そしてこの演出こそが、各字書きの個性が現れる点だと思っている。これについては好みやこだわりがあるので、今回はただ私が普段どうしているかの話になってしまうのだが、これを決めることによって「この人が書く文章はこういう演出がある」すなわち、「こういうカレーを出す店です」ということを示すことができる。

個人的に決めていることは、①最初と最後に数ページ分のプロローグとエピローグを入れる ②プロローグはエピローグ、あるいは物語のどこかの一部と繋がっている(別視点など) ③タイトルを一番最後の文章で回収する ④できるだけ一番最後はセリフで終わらせる の4点だ。

これらをやる理由は一つだけだ。

楽しいからである。

悪いけれどもここに関しては読者を増やすとか面白くするためとかそういうことではない。前編でも告げたが私は京極夏彦氏のファンであり、氏の作品がこの4つの演出を施しているからだ。そして、私が氏の作品を読んで、読み終わった後に丸一日何もする気が起きなくなるような、どうしようもない感情に苛まれるという壮絶な読書体験をしている根幹だと(私が勝手に)感じている点でもある。

本編に入れたいけれども入れると物語の構成が崩れてしまうような、感情的な部分や、視点の問題でどうしても入れることができない別軸の内容をプロローグに入れる。そうすることで、最初からこの物語がどういう色合いのものなのか、世界観の入り口を演出することができる。そして何より、二回目を読んだときにやっとその真の意味を理解することができる、という仕掛けをすることが可能になるのだ。(当然、同人誌を二回以上読む人なんてほとんどいないと分かった上での演出だ。再三いうがこれは自己満足である)

③と④は映画的な演出だと思う。一番最後にタイトルの意味を理解する系映画が好きだし、セリフを喋る俳優の表情でブラックアウト→エンドロールという演出がとても好きだ。もっとも、私は情感たっぷりの文章が苦手なので、その時のキャラクターの表情のエモさだとかを細かく書くと逆に萎えてしまうのでは?という懸念もあり、あとは読者にお任せ、想像してね、という逃げでもあるのだが。

以前字書きの友人とこんな話をした。夕焼けを表現するときに、その美しさを事細かに書くことが私にはどうしてもできない。できないけれど、「悲しくなるほどの美しい夕焼け」と書けば、大抵の読者はこれまでの経験の中で、そうした風景を勝手に想像してくれる。書けないことは想像させた方がよほどいいし、効果的だと私は信じている。

こうして演出を組んで、エピローグを書き切って。

最後に、(了)とつける瞬間。

この瞬間のために、私は長編を書いている。

まじで一回やってみてほしい。本当に。この瞬間に、腹の奥からぐわっと熱が広がっていくような感覚になるのが、どうしてもやめられない。世界を一つ産んで、構築し終わった後にアドレナリンドバドバで保存ボタンを押す瞬間のためだけに、私は多分28万字を書いているんだと思う。

書き終わって、3回〜5回は通しで読み返すようにしている。誤字脱字のチェックと、物語的な破綻がないか確認するためだ。この期間は地獄だが、そうして校正を終えて入稿すると、すっかりこれまでの苦労は忘れている。

完成した本を、読み返したりはしない。その物語をすでに体験してしまっているので、読み返したところで自分にはもう新しい発見はないからだ。

そしてまた、次の原稿を始める。病気だと思う。

あいにくと周りに新書400pを書いたことのある人がおらず、この感情を共有できないのがつらいので、どうかこれを読んだあなたは長編にチャレンジしてほしい。そしてこのとんでもない快感を覚えてほしい。何物にも変え難い、快感というか、なんというか、なんだろうね?興奮でもないんだよね。すごく、言葉に表せない、達成感とも違う何かがあると思う。これこそが脱稿ハイ。シャブ。書き終わると二度とやらない!なんて人もいるので寂しいが、小説を書くのが好きだ、という方にはぜひ、新書400pにチャレンジしてみてほしい。

きっと見える世界がまた変わると思うので。

終章:同人活動は人生で役に立つ

同人誌を出すのって、マルチタスクだ。

小説を書く・表紙をデザインする・印刷所に見積もりを出す・発注書を作る・入稿をする・イベントを申し込む・イベント当日の備品を揃える・通販サイトに登録する・告知用の素材を作る・告知をする・サンプルでアピールする・当日頒布活動をする・金銭周りの管理をする・・・etc

これらは、商品企画・制作・経理・広報・マーケティング・戦略立案・・・といった業務に、少なからず通じるものがあると思う。実際問題すべてを行うのは自分一人なので、決裁に対してGOを出すのも自分であるし、投資価値についての判断も自分だ。面倒な上司の承認を取る必要はない分そこまで深く考える必要はないが、それでも前編でも書いた通り、詳細のスケジュールを組み立て、その通りに進めていくというスキルはやっぱり仕事でも役に立つ。

個人的には、印刷所にやたら詳しくなるのと、紙についてもやたら詳しくなるので、会社で販促用のポスターを印刷したりイベント用のPOPを作ったりするときに妙に詳しいと「あれ?印刷所出身だっけ?」なんて勘繰られる可能性がある(実際あった)(怖い)なので今はミランダやシェルルックツインスノーやシャインフェイスを見ても「なんかキラキラした紙!!!!」と言うようにはしているが、ともあれこうした妙な知識があると、例えば公式から出されたビジュアルブックの装丁がベルベッドPPに箔押しだったりすると「コストかけてるなあ」「ありがたいなあ」と思うし、友人の結婚式の招待状がミランダにカッティング加工だったりするとちょっと嬉しくなったりもする。

これは同人活動に限った話ではないのだが、あらゆる趣味は人生を豊かにすると思うのだ。知らなかったことを知るというだけで、見えてくる景色が変わる。知識を得るたびに階段を一つ一つ登るとするならば、当然のように自分の存在位置は地面より高くなるし、高くなると見えてくる景色の範囲だって広くなる。

創作活動は、どうしたってエゴが関わってくる。考えていることを文章ないしは絵に落とし込み表現するというのは、ある意味で自分自身と向き合うことにもなると思う。同人活動を通じて、好きだと思う本や映画についてたくさん考えてきたし、そうすることで自分の中でフィルタリングができて、より良いコンテンツに出会うこともできるようになった。そこから売れているコンテンツがなぜ話題になっているのか、どういうターゲットに人気なのかという発想をするようにもなったし、そうした物の考え方が実際仕事に役に立ったりもする。

そして何より、「原稿がある」ことで救われたこともあった。

コロナ禍において遊びにいくこともできず、家に引きこもる生活がそこまで苦ではなかったのは、たぶんパソコンに向かえばそこにやるべきことがあったからだと思う。書かねば終わらない、自分で読みたいものは自分で書け、とはよく言ったものだが、気が滅入っていてもそこに書くべき世界があるというのは救いなのだと知った。他の人がどうかは知らないが、私がこの一年馬鹿みたいに小説を書き続けたのはおそらくこれも理由の一つなんじゃないかと思う。

あとは自信がついた。新書400p書き切るって、やっぱすごいと思うんだ。それだけのことを、例え社会的に意味のないことだとしてもやりきることができる、そしてそれが自分の本棚に並んでいるというのは、やっぱり自信になる。

最後に、ちゃんと出してるよ!という証明も兼ねて、どう参考になるかはわからないがここ一年で発行した本の写真を載せておく。

画像2

左から、新書410p、新書400p、文庫204p、文庫214p、文庫102p、B6100p

分厚い同人誌、やっぱテンション上がるよね!

分厚い長編小説が自カプで増えることを願っています。

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