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「神頼み」という手をすっかり忘れていた件

自己責任論、自助努力論といったものからとんでもなく圧をかけられがちな昨今。私以外にもきっと多くの方が、これらから底知れないしんどさを受け取っているのではないだろうか。当たり前に生きることが結構むずかしい。

とはいえ私にも、怠けたり短気すぎたり諦めが早すぎるってところが多分にある。そこは大いに反省しなければなるまい。

そうだとしても…どうやら運に左右されるはずのところまで責任を負いこんでしまっているフシがある。何かにつけ、努力とか真摯さとかでカバーしなければならないってふうになってしまっている…ような気がする。


御百度参りする姿を見てハッとした


父親が足を悪くした。長らく恒例行事だった初詣も、コロナ禍を境にしてご無沙汰。両親の年齢からして、もう再開はないだろうな。いまは毎年,私がひとりでひそかにその神社を訪れている。

人の多い元旦を避け、1月下旬だったり3月だったり。 今年はつい先日(5月15日)ようやくお参りしてきた。人生でいちばん遅い〝初詣〟だ。
今年はおみくじは引くのをやめた。3年ばかりしんどいことが続いているが、そこに大吉だ中吉だと末吉だと言われても…ってふうな気分だったので。

その神社で御百度参りをする方たちをお見かけした。

お百度参りとは本殿前でお参りして入口に戻り再び本殿前でお参りすることを百回繰り返すことです。 お百度を踏むとも申しますが、これは決して強制されるものではありません。 百回でなくとも、ご自分でお決めになられた回数で結構です。 大切なのは神様に願いが届くよう一心にお参りすることです。

https://www.ishikiri.or.jp/faq/detail/14/ (石切劔箭神社HPより引用)

運は残酷にも、人を理由なく〝むごい出来事〟に投げ込んでしまうことがある。

あるときは難病、あるときは天災。今年は2023年紅白歌合戦のフィナーレからわずか十数時間後に、元旦早々令和6年能登半島地震が起こってしまった。なんともひどい新年の幕開けだった。

天災といい不慮のもらい事故といい…不運にしてそういうできごとに巻き込まれたその人には責任も非もない。あってたまるものか。

不運に見舞われなくてはならない理由なんて無い


SNS上でたまに、そういう人のつぶやきの揚げ足をとるような輩を見かける。弱っている方に対してずいぶんと無理強いの正論を垂れる。強者から弱者に向けての自助努力論。やめて差し上げてくれ。

悪運に見舞われたというだけで「汚れ」「けがれ」というレッテルを貼るような心性は、実は昭和やそれ以前からずっと日本に蔓延り続けている(結核がかつて不治の病とされたころ、それをモチーフにした文学作品が数多く残されている)。

で現在はというと,Twitter(現X)の最大の利用層を占めるのが日本人。
噂話の裾が果てしもなく広がるばかりか、かつては「人の噂も75日」がせめてもの救いだったはずなのに、あろうことか噂をアーカイブする技を覚えてしまった。元々が湿気多めの民族。幸福感が増えたようには思えない。

繰り返し書くけれど、運に運以上の意味はない

理由なき不運に見舞われた方たちは,それだけですでに大ダメージを負うている。
もっと優しくなろう。正論なんかより優しさだろと思う。

理由理屈で片付かない物事がまちがいなくある


闇雲に馬券車券のたぐいを買っても当たらない。宝くじにいたっては100%運任せ。確率としては限りなくゼロに近いように感じられるけれど、当選する人はいる。

それでは、努力で宝くじを当てることはできるだろうか?
競馬競輪ならいざ知らず、ランダムに産出される宝くじの出目を研究したところで、それが何になるんだ?

努力の余地があるのだとすれば、せいぜい〝験担ぎ〟ぐらいだ。たとえば1等当選者の多い売り場までわざわざ新幹線に乗って出かけてみる…などの類。それを努力と呼んでいいものかどうかはちょっとわからないけれど。でも験担ぎってのはちょっと楽しいところがある。愚かしくとも少なくとも人間味はある。

そこへくると、御百度参りというのはすでにものすごい努力である。

全力で願をかけて歩いては祈り、また踵を返し歩いては祈り続ける。果報を寝て待つのではなく、自身に修行を課しながら待つ。根拠のない見返りを待つ。
待っている果報が身内の重病からの生還だったりとかなら、ほんとうにいたたまれない。私のふだんののほほんとした態度が恥ずかしくなる。

理屈や論破が流行るこんな時代だけど、願かけを完全に忘れてしまっていいのか?
努力ではどうにもならない物事を運に委ねることは滑稽なのか?

ITやAIが運を駆逐する日なんて来てほしくない


なぜか「神頼み」のような他力本願的な態度には人気がない。

わかるけどいまの社会、ちょっと頭ばかり使わせすぎていやしないか?
もっと身体を使いたい。座って頭ばかり回すようなものが増えてるけど、テレワークばかりでは気も塞ぐ。会って話をしたほうが合理的な物事は多くある。画面の向こうが曇りガラスの向こうであるかのように感じないのか? 何より…家内がテレワークをしているときには家に居づらかったりする(実は私自身はテレワークはやらないんです)。

人間の身体でやってきたはずのことを,テクノロジーが代わりにやってくれる。近所の焼肉チェーン店で食べ放題コースを頼むと、何度かに一度ぐらいペッパー(ソフトバンク謹製ロボット)を改造したような配膳ロボットが生肉を持ってきてくれる。掃除はルンバだろう(私の家は散らかりすぎていて、ルンバを導入してもたぶんあれこれの障害物に邪魔されてしまう)。そんな技術が近い将来、公道上で車を自動運転してくれるところまで行きつつあるみたいだ。

天気予報の精度が下がるとみな文句を言うわけだけど、反面、100%言い当ててしまってどうするんだ?とも思う。自然を従えてしまうほどの頭脳をたしかに持つことはできそうな勢いだ。それは大いに結構なんだけど、倫理方面の問題をAIは解決してくれたりするだろうか。

あるいは原発問題。あるいはリニア建設。技術がなにかすごいことを実現しようとしても、権力や経済的な欲がぶちこわしたり秩序を乱したりするのがオチだろ…所詮は人間なんだから。一周回ってそれなんだから。

できれば運まかせにするしかないジャンルも取っておいてほしい。
自分が人間として生まれて、人間として生きてきた以上は、最後の最後まで人間でいたいという気がしてならない。

なんだかヘンテコな結びになってきた。脳が疲れてきたのだ。
そんなこと言ってたらAIが書く文章に負かされてしまうぞ。
屈してはいけない。人間っぽいデコボコさでもって勝負を挑もうではないか。
デコボコですみません。やっぱり人間が書いたってふうな文章を書きたいのです。

AIに仕事も趣味も奪われませんように、と神様に拝んでおこう。


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