見出し画像

給料泥棒と椅子取りゲーム

実にひどい言葉だけど…給料泥棒っていうコトバがある。

この時代、無能は罪だとまで言われそうだが…給料をもらう側からいえば「無能さに耐えてそこにとどまりつづける」ことってのも意外と大事なのではないかと思い至っている。

そりゃあ職場にはしばらく迷惑をかけるだろう。

言っておくけど、人はなにも働くために生まれたわけなんかではない(国は人を働くために生まれたことにしたいだろうけれど)。ついでに言えば、人様に迷惑をかけないために生まれたわけでもない。

前者についていえば、仕事というものがどうやら私の生前からすでに日本社会で脈々といとなまれてつづけてきたらしい。この世に命をさずかった私はアウェイとして、生活するために職につき、青息吐息で順応させながら生きている。

変なストレスに追い詰められさえしなければ、おそらく経験を通じて見えてくるものから何かの知恵が得られるはずだ。それをやってのける頭脳を人は持っている。
どうして〝経験知〟が熟するまで待てないんだ(待たないんだ)?

成果を早々と出さなければ気が済まなくなっているからなんだろうね。

あとはやはり…同じ立場にある者を蹴倒しておきたいってのもあるのだろう。

まるで後から蜘蛛の糸を伝って登ってくる同じ穴のむじなを追い払おうとして、地獄に舞い戻ったカンダタみたいだな。


郷に入りては郷に従えってことなんだろうけど…それにしても〝後輩いじめ〟のひどい場所だなあ。もっと機嫌良く働けばいいのに。

ーーーーー

もしこの人生が椅子取りゲームみたいなものだったら、全員がいい思いなんてできないんじゃないかと思いはじめている。

乱暴かもしれないけれど、経済なんてものは一定量のお金(政府の意思で流通するお金を増やしてしまうことだってできる)を回しあっているだけなんでしょ? 10人おればその10人全員が目標を達成できてしまう事態は果たして本当にあるのだろうか? 得することがはなからわかっているのは、お金を刷ることのできる側にいる輩だけだろって。

強者弱者が生まれて当たり前。

ならば椅子取りゲームもそれなりの節度をもってやりたいものだ。

勝者の存在を認めつつ、敗者は敗者としてつつましやかに生きていけばいい…なのに最近は、敗者には人権はないとまで言わんばかりだ。勝者弱者はさまざまなガチャで決まってるだけなんだから、そこまで偉そうにするなよって言いたくなる。

〝日本〟に余裕がなくなってしまったから、そんなふうなのだろう。

権力者にオールを委ねた成れの果て。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?