(閲覧注意)宇宙に溶ける

畑の真ん中で夜空を見る機会があった。周囲には街灯も家の明かりもなく、星がやけに綺麗に見えた。地平線側の空の縁は青くて、今踏みしめている場所が球体であることを思い出させる。
右手を開いて空へ向ける。星空が指の隙間から僕の手を侵食してきて、その手は次第に夜に溶けていく。

翌朝。夜空と一体になった手をポケットに突っ込んで通勤電車を降りる。改札を出ると、イヤホンで世界を塞いだはずの僕の脳みそに、政治家の街頭演説が降り注ぐ。彼らはいつも僕達に考えることをやめさせてくれない。頭の中で「正しさ」がフィードバックループを起こして、その場に突っ伏して全てを吐き出してしまいたい衝動に駆られる。少し思い出すことがあった。

雨上がりの草原。草には雨の滴がきらきら輝いていて、曇り空と晴天がちょうど空を半分に分け合う頃。アルミかステンレスでできた簡易な舞台。僕はそこに立つことができずに突っ伏して泣き叫んでいる。隣で立っている彼女は僕を無表情のまま見ている。
彼女は僕に興味がないのだろうか。それなら、僕はとても悲しく寂しい。それとも、彼女は僕にかける言葉が見つからず当惑しているのだろうか。もしそうなら、僕はとても申し訳なく恥ずかしい。
彼女の服装はよく覚えていない。ただ、僕が台無しになったのなら、みんなも、世界も台無しになってしまえばいいのに、と思ったことは覚えている。

街に化け物がやってきて。芋虫のような、竜のような、蛇のような、巨大な黒い化け物。街中を這い回って、石油のような黒い液体をあちこちに撒く。レンガ造りの車庫に入った汽車を何とか動かそうとするけれど、錆びついていて全く動かせない。そのせいで、液体は爆発するみたいに燃え上がって、街を爆炎が包み込む。誰も彼もが焼けて死んでいく。

燃えてしまったみんなの「たましい」は、僕が家で飼育している害虫の卵に変わっていく。繁殖しすぎてついに手に負えなくなってしまった。家中が虫だらけになって、ああ、取り返しのつかないことになったな、と他人事のような感情だけがあった。
こんな惨状でも、「責任から逃げてしまいたい」といったことを考えていて、人間というのは何時も変わらないものだな、と呆れ返ってしまった。何かの奇跡で元通りにならないかと、有りもしない可能性についすがってしまう。
結局、砂と虫でグチャグチャになった絨毯の模様の中に正解を探すことにした。

午前2時、祖母と一緒に母の退院を待っていた。母は僕のためにおもちゃを買ってきてくれて、そのことはとても嬉しく感じたけれど、そのおもちゃ自体には全く興味がそそられなかった。期待に答えられなかったな、せっかくの思いやりを無駄にしてしまったな、と感じてとても申し訳なく思った。
祖母の家には、月をモチーフにしたキャラクターの描かれているピンク色の砂時計があって、その時初めてその器具の存在と使い方、名前を知った。正確な時刻がわかるわけでもなく、始まりと終わりがあるだけのその器具に「時計」という名前が与えられている事実にとても感動したことを覚えている。
深夜の窓は真っ黒くて、僕の知らない世界が広がっていると思うと恐ろしく感じた。夜の間、家の外には蛇が現れて、勝手に家から出ると食べられてしまうのだと思い出した。

初めて夜中の駅前を歩いた時、違う世界へ迷い込んだかのような気がしたことを覚えている。気付いたら蛇はもういなくなっていて、店も人も車も、世界が僕に興味がないという事実がひどく心地良かった。
あの時、隣を歩いていた彼女は、とても遠いはずの存在だったけれど、その時は以前より身近な人に感じられて、自分が大人になれたような気がした。10年経った今、彼女はお腹に誰かと紡いだ命を宿しているらしい。やっぱり遠い存在なんだな、敵わないなと痛感させられた。

同じく夜。国道の地面を工事していて、そのためにやけに明るい照明がいくつも置かれていた。夜の地面は沼みたいになっていて、僕らの足を引きずり込んで離さないような黒い色をしていると思っていたけれど、LEDの明かりに照らされたコンクリートは真昼の太陽に照らされている時の表情と変わらなくて、呆気にとられた。夜にかかる魔法なんてものはなかったのかも知れないし、逆に工事用の照明に太陽と同じだけの魔法が備わっていたのかも知れない。その明るさが、僕を夜から引き離してしまうような恐ろしいものに思えてきて、僕は足早にその場を去った。作業員の人達が、その明るさを浴びて消えてしまわないことを祈った。

結局のところ、夜も昼も僕らは宇宙にいるのだと気づいたのはいつ頃だったっけ。そう考えると僕の手も、足も、頭も、体の全部が空気へ溶け出してしまうように感じた。そのように消えてしまえるならこれ以上はないな、とも思った。僕の声が誰にも届かないのなら、既に僕の体は宇宙に溶けているのかも知れない。


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