始めまして、名乗ります

こんにちは、始めましての方は始めまして。多分あまり始めましてということはない気もするが。

フジツバメと申します。

元々「日常の自分とは違う場面で使用する名前が欲しい」と思ってペンネームを考えていたのだけれど、全然思いつかず本名をいじくってこうなりました。

名前を付ける、というのはなかなか難しいものだ。(名前とか名付けにも色々あるのでそのあたりの議論は後回しにしよう。)少なくとも私達が意識して何かに命名することは「何らかの事物にラベルをつける」行為だと言える。人物なのかペットなのか愛用品なのか、色々な類があるとはいえ全て命名は人為的な「ラベル付け」だ。

そう考えると、私が悩んでいた「ラベル付け」の対象は「私の人格の一部分」だと言える。日常的には本名を掲げて学校やら仕事やらに身を置いているので、その他の日常的でない活動における私の人格を取り出し「ラベル付け」をしようとしていたわけである。

さて、名前を付けることが「ラベル付け」だとして、何故私達は「ラベル付け」しなくてはいけないのだろうか。これに関しては昔のエラい人がある程度見当をつけているようだ。

専門外なので間違っていたら恐縮なのだが、ソシュールという学者は、名前を付けるというのは「他の概念と区別するため」だと主張していたらしい。(別に論文でも何でもないので出典は明示しない。というかできない。)例えば、「リンゴ」という名前は他のフルーツや植物その他あらゆる概念と区別するために付けられたものである。つまり、その「赤くて甘味と酸味のあるおおよそ美味な果実、およびそれを作り出す性質を持つバラ科の植物」を梨やイチゴ、カボチャ、ナス、大豆、コーラ、唐揚げ、うどん、はたまた日本とか学校といったこの世界を構成する全概念から切り出すために「リンゴ」と名前を付けるのである。

この切り出し方は言語によって異なっている。日本語はたまたま「蝶」と「蛾」を別物として切り出しているが、フランス語ではこれらを"papillon"としか切り出すことができない。

なんか論文みたいになってきたのでもっとユルくいこう。何が言いたいかというと、ペンネームを付けようと思いたった私の心理として、日常の私、仕事や学校での私と切り離した人格を求めていたかもな、ということ。

(脱線:そう考えると子どもに名前を付けるのは「社会的に必要だから」という以外に、「他の人物から分け隔てられた唯一無二の個人になってほしい」願いもあると言えそう。"individual"の語源とか考えると面白い。「ギターに名前を付ける」というある時期から儀式化した行為も、他のギターや楽器から独立した存在であるという期待や愛着が観察できそう。)

私は、特別であろうとか、目立ちたいとかの意識はとっくの昔に捨てていたと思っていた。改めて考えてみると、こうしてペンネームを求めていた姿勢に、日常でない自分があると信じたい心理や理想の自分を目指している思想が見て取れる。この気付きには自分自身で少しハッとさせられた。

(脱線:他方で米津玄師さんとかは、まんま本名で活動されているわけで。現実の自分と理想との乖離がなさそうというか、多分なくそうという覚悟の表れなんだろうなと思ったり。元々「ハチ」を名乗られていたわけで、そこから本名に転換するのはもの凄い覚悟だ。)

フジツバメ、というのは本名もじってることもあって多少は現実と理想の距離は縮まってきたのだろうか。別にそのあたりのスタンスは高校生から変わっていないのだけれど。

新しい名前を名乗るというのはなんだか恥ずかしい気もする。思うにペンネームを作るのが恥ずかしいのは理想を誇示する姿勢を周囲に晒していることになるからなのだろう。

私はこんな感じで音楽と哲学をチョロチョロしてきた人間だ。この4月から学生生活をしまい込みいわゆる仕事をする人になったわけだが、だからこそ、その音楽と哲学をチョロチョロしていた自分のその続き、その先の理想の姿を求めて新しい名前を作り、それを示しているのだろう。

きっと私という多面体の一部分を切り抜くことは、私の人格の大部分は陳腐でも他の一部分は特別だと思いたい心理の表れである。つまりそれは夢を追いかける姿勢に他ならない。それは善でも悪でもない。

そういえばいつぞや岡田斗司夫さんも「夢は女と同じで、完全に叶うことはないけど生きる上で必要なんだ」みたいなことを言っててほえ~と納得した記憶がある。夢を追うことは私達にとって麻薬に近い部分がある。やみつきになって戻れないほどに。そんなことしない方が楽なのについ目標を掲げてしまう。そして、大抵は手に入らずに次の理想を掲げる段階に入る。そうして生まれるのが「過程が大事なんだ」という各種名言。

私自身この姿勢に侵されている。好きな名言はと聞かれれば、ハンターハンターのジンが語った「道草を楽しめ」「ほしいものより大切なものが、きっとそっちにころがっている」というセリフを挙げるくらいには毒されてしまっている。今後もおそらく私は、色々な自分の切り抜き方、理想の在り方を模索してはそれを糧にダラダラ生きていくことだろう。

新しく名乗ることは、生み出すことではなく、生き続けることだ。

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