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追悼アントニオ猪木~プロレス=八百長へのアンサー

アントニオ猪木が亡くなる。
自分は全日本派ではあるが、猪木は別格だ。
その苛烈なファイトは勿論の事、頭蓋骨の形状、特に顎に至ってはハプスブルク期の神聖ローマ帝国皇帝を思わせる、異形を以てして一度見たら忘れられない、類まれなオーラを持つ。
そんな猪木がプロレスラーとして闘い続けた世間の目、「どうせ八百長」という色眼鏡に大して明確にアンサーを出したい。

目次
1 八百長とは何か
2 ファンによるプロレスの見方
3 プロレスを八百長と言い出したら‥
4 プロレスファンは”ガチ、真剣勝負”が何かを知っている
5 リングに上がる前後にガチの闘いがある
6 結びに‥

1 [八百長とは何か]

まず、「プロレスなんてどうせ八百長だろ?」「なんでロープに振って帰ってくるんだよ」「藤波と長州って本当は仲が良いんだろ」
というプロレスファンなら1度は言われた事のある、侮蔑の言葉達について。
そもそも”八百長とは何か”を考える。
それは「真剣勝負だと思って観てたら勝敗が事前に決まっていた!こんなの八百長だろ!」である。
この”真剣勝負だと思って観てたら”が重要なのである。
つまりプロレスを「八百長だ!」とドヤ顔で批判する方々はプロレスを筋書きの無いガチ、”真剣勝負”だと思って見ている純真な心を持った人達なのだ。

2 [ファンによるプロレスの見方]

では我々熱烈なプロレスファンはどう思っているのか。
「なんでロープに振って帰ってくるんだ」という問いかけにファンタジー抜きで返せるプロレスファンはおそらく一人もいない。
かろうじて「100キロオーバーのマッチョマンが勢い良くロープへ振られて下手にロープで止まろうとしたら逆に危ない。ロープは思ったよりずっと硬いので逆に体重をかけて衝撃を逃した方が良い」という言い訳はあるが、やはり言い訳感は拭えない。
プロレスファンというのはおそらくだが、ピーターの本が出る以前から表面上は”真剣勝負”と思いつつも心の奥底では”筋書きがちゃんとある”と理解していたと思う。
それを何故表立って認めないのかと言えば、要因は様々あるだろうが、結論として「そんな事はぶっちゃけどうでも良い」と思っている。

八百長」と言うのはプロレスを”ガチ真剣勝負”と思う人達の言い方であって、表立っては言わないが、プロレスを”筋書きがあり、真剣勝負ではない”と理解しているプロレスファンからすれば「八百長」等と言うワードはプロレスに存在しないのだ。

3 [プロレスを八百長と言い出したら‥]

「筋書きがあるのに何で見るの?」という問いがあった。
全く苦し紛れの言い掛かりのような言様だが、プロレスファンは1,2,3のスリーカウントを聴くまでどちらが勝つか分からない。
どこかで画を描いてる人がいて、筋書きがあろうとも、結果を事前に知る事が出来ない我々は熱いカードの発表に床を鳴らし、全力で贔屓のレスラーを応援するしかない。
それこそ筋書きなんぞ有ろうが無かろうがどうでも良いのだ。
プロレスはショーでありエンターテイメントであり格闘技でありスポーツだ。
これら全てを内包する事に何の差し障りがあろうか。
そういうものを無遠慮に「八百長だ」という人は、漫画や映画にも「八百長だろ」と冷笑して見せるのだろうか。
漫画や映画も事前にストーリーがあるが結末を知らない視聴者はハラハラドキドキしながら観るものだ。
魁男塾の驚邏大四凶殺で富樫と飛燕が対決した際、一度は谷底へ落ちたと思われた富樫が上昇気流に乗って戻って来たのを「どうせ宮下あきらが最初からこうなるよう決めてたんでしょ」と言うのだろうか。

プロレスを「八百長」と言ってしまう人はショーやエンターテイメントが分からない、遊び心や面白味の無い人間だなと思ってしまう。
※個人の感想です

4 [プロレスファンは”ガチ、真剣勝負”が何かを知っている]

ではプロレスが完全にストーリーのある、ショーなのかと言えばそうでもない。
そうでもない事実をプロレスファンは何度も見ているので、”ガチ、真剣勝負”が何か、それが如何にプロレスにとって不要な要素かを知っている。

1989年4月20日 大阪府立体育会館
全日本プロレスで鶴龍対決による三冠ヘビー級王座選手権が行われた。
天龍の激しい攻撃がやや危険な位置に入り、思わずキレたジャンボ鶴田が掟破りのパワーボムを天龍に仕掛ける。
最初は「何だよコノヤロー」と堪えていた天龍だが鶴田がしつこく持ち上げようとするので、「まぁ1回くらい良いか」と受けに回ったら、それこそキレていた鶴田が勢いのままブワンと持ち上げて、天龍を後頭部からマットに叩き付けてしまった。
これで天龍は失神。
レフェリーも已む無くスリーカウントを叩いた。
勝った鶴田は正気に戻り「ありゃ‥やり過ぎちゃった‥」と所在無さ気な表情のまま勝ち名乗りを受ける。

これが八百長と呼べる代物かと。

大阪府立体育会館という大箱、鶴龍対決、三冠ヘビー級王座選手権
これだけ条件の揃った試合では”やらかした”としか言いようがない。

プロレスは危険なスポーツだ。
一歩間違えば歩くどころか立ち上がれない身体になり、もっとすれば死する事もある。
ガチだ八百長だと揶揄するのは、命がけのレスラーに対する冒涜以外の何ものでもない。

5 [リングに上がる前後にガチの闘いがある]

プロレスを長く見続けている者とすれば、一人の選手の生き様、軌跡を大河ドラマとして観る事もある。
入団し修行を重ねデヴューしても、それが始まりでゴールではない。
そこから練習に励み、話題を作り、地方大会で観客を沸かせ、会社にアピールして良いチャンスを掴まなければならない。
タイトルマッチはリングで行うかも知れないが、タイトルマッチに絡む、タイトルを穫る(と会社に決定させる)という闘いはガチの真剣勝負そのものだ。
またリングの上では負け役になったとしても、名勝負を作り、ファンから喝采を得る事でリングを降りた後にまたチャンスが得られるかも知れない。プロレスラーの勝負はリングの上だけではない。
レスラー人生の全ては真剣勝負に他ならないのであって、ファンはその全てを見て評価している。

総合的にはプロレスは八百長などない真剣勝負なのだ

6 [結びに‥]

これが私のプロレス=八百長に対するアンサーであり、まさにアントニオ猪木はじめ、往年のレスラー達が真剣に闘い抜いて来た生き様であるとして、伝説的名レスラー、アントニオ猪木氏の追悼に代えたい。

(了)


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