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なぜ「盲点の窓」を伝え合うとコミュニティが熟成していくのか

おはようございます。

私の氷山の下の方には「損をしたくない」という考えがあるようです。

振り返ってみるとそれはかなり根強くて、常に何かの動機になっているように思われます。

損をしたくない→頑張る→達成

<がむしゃらに頑張れば物事は成し遂げられる>という成功体験が私にはあります。

この成功体験のもと、どんどん頑張らなくてはならないことが積み重なっていきます。

達成欲も人一倍強いという自覚があります。

ところが、どんなに頑張っても達成できない現象が現れます。

損をしたくない→頑張る→X→脱落

私はもっと脱落したことに目を向けると良いのではないか。

「逃がした魚は大きい」という慣用句もありますが、その言葉にとらわれ過ぎていたかもしれません。

逃がした魚を忘れ去ってしまうことは、釣りスキル向上のチャンスを損失していることと同じです。


でも、頑張りすぎるとやっぱりどこかに綻びが出ますよね。

まさに今の私。

そんなとき、「何者かにならなくて良い、あなたのままがいいんだよ」という言葉に、ホッと救われます。


さて、前置きが長くなりましたが、以下本題です。


本記事は、プロセスワークで言うところの「高いランク」を見立て合うワークについて書いた、前回の記事の続きです。


「書かなかったこと」は「起こらなかったこと」と同じ・・・なのか?


大切な仲間とともに行ったことからの学びを、文章として残しておきたくて、少し時間をかけて言葉にする作業をしています。

私は、対話やワークショップの企画運営は大好きなのですが、文章に残すとなると一言一句納得のいく言葉を当てはめるのに凝り過ぎて、時間がかかってしまうことを自覚しています。

ところが、あるコミュニティで広報教育に携わる時、

「発信しなかったことは、この世に起こらなかったことと同じです」

と騒ぎ立てたのは、この私です。

完璧でなくても出し続けてみることにシフトチェンジをして、今年は進んでみようかと思っています。


「高いランク」を見立てあうワークの手順

「高いランク」を見立てあうワークの手順は以下です。

①外からの「高いランク」の見立てをチームメイト同士で伝えあう
②見立てを聞いてどのように感じたのかを話す
③(後日)自分の行動にどのような変化があったのか報告しあう

※ランクとは、「個人の持つ特権の集合体」です。社会的もしくは個人の能力やパワーであり、文化、コミュニティー、個人の心理、スピリチュアルなパワーによって形成されます。当事者が意識している場合と、意識していない場合があります。

私はワークの途中でニヤニヤすることを我慢できなくなってしまいました。

こんなに無条件で褒められることってなかなかないんです。

それに、自分の尊敬する仲間から言葉をかけてもらえるというだけでもうれしいんです。

あっという間に頭に血が上り、顔がほてってメガネが曇ってしまいました。


ワークを通した3つの気づき

なぜ私のメガネが曇ったのか、後日もう一度考え直したとき、以下3つの気付きがありました。

1:褒める・られる習慣がない
普段、誉められなれていないと、自分の高いランクを素直に受け止めることができず戸惑ってしまう
2:話されていなかった相手の視点が急に気になりだす
自分の意識していない長所(盲点の窓)を探り当てられると、目の前にいる相手が日常的に考えていることすべてを表現していないことに気づかされる3:ラポールとロイヤルティ
お互いの高いランクを認めあうことで、心理的安全性が高まりラポールが形成されて、相手のことがもっと好きになる。さらに、忠誠心や帰属意識といったロイヤルティが高まったことを自覚すると、なかなか離れられなくなる。

今日は、二つ目の気づき「話されていなかった相手の視点が急に気になりだす」について深めてみたいと思います。


2:話されていなかった相手の視点が急に気になりだす 

自分の意識していない長所(盲点の窓)を探り当てられると、目の前にいる相手が日常的に考えていることすべてを表現していないことに気づかされるというのが今回の主張です。

以下、相手の視点と言語化、表現判断について考えてみました。


ここでの前提は、ジョハリの窓で言う「盲点の窓」(図の右上の象限)の領域の話になります。

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自分の意識していない長所(盲点の窓)を探り当てられると、目の前にいる相手が日常的に考えていることすべてを表現していないことに気づかされます。

これは目の前にいる相手は自分の鏡だと認識できていれば納得できることなのかもしれません。

ただ、私は日常生活において、次のことをほとんど認識できていません。

<私の考えるコミュニケーションと言語の仮説>
1.人は、頭の中で考えたことのうち何割かを、言葉に当てはめる
2.言語化したもののうち何割かを、この相手に伝えるかどうか決める
3.そして相手が自分の言葉を受け取り何割程度の意図を汲み取ったかどうかということについては、未知数である

このように考えたとき、まず相手の頭の中には、普段から<言語化はできたけれども相手には伝えないこと>もあるという前提があります。

普段は理由があって相手に伝えないことがあるとして、それはなぜでしょうか。

そこまで踏み込んだ関係性ではないかもしれないから、伝えない。
そこまで相手と深く話をする時間がないから、伝えない。
自分の解釈は正しいかどうかを確認しないままで誤解を招きたくないから、伝えない。

色々なわけで、人に伝えないままの状態を保ち、その容積を小さくしていく言語群が私の頭の中にはあります。

そんなふうに思ってたの?
こう見えてたんだ!
それは私の意図とは違うんだけど・・・

普段自分が気づかないことを指摘された時、立ち現れるのは必ずしも前向きな反応ばかりではないかもしれません。

けれどもそれを相手が自分に伝えようと思ってくれたと言うところを取り出して考えるべきは、

「このことをあなたにつたてみよう」

と相手が考えてくれたということ。それは喜ぶべきことなのではないでしょうか。

何事にもシンプルにイージーゴーイングで、頭に浮かぶ言葉を取捨選択せずにそのまま表現する人もいるかもしれません。

あるいは、過去の文脈にとらわれずありのままの相手を受け止める準備のできている人もいるかもしれません。


会話の「のれん返し」はコミュニティの機能不全の始まりか

またこんな問題もあります。

<気が付くといつも行き着いてしまうコミュニケーションの私の壁>
たとえ十分に自己開示をし、相手に伝えられる範囲のギリギリのラインまで言語化した思考を伝えたとしても、それと同様の言葉が返ってくるという約束は存在しないこと。

どんなに腹を割って話をしたとしても、相手の状況を把握できておらず「のれんに腕押し」状態を起こしてしまっていたら、それは双方やその場にとっての悲劇です。

もしかしたら、特定のコミュニティや場において、グラウンドルールや前提、共通の目的を定められている場合は、比較的スムーズなキャッチボール反応を期待することはできるでしょう。

それでも私はなるべく制約のない状態で、いのちの趣くまま、恣に選び抜かれた言葉を受け取りたいという願望があったりもします。


もしも、高いランクを見立て合うことがそのコミュニティや場、組織の中で行われていたとしたら、その集団はかなり成熟した段階にあります。

そのために必要だと思われることは、次の記事で考えていきたいと思います。


おわりに

今日はこの文章の一部を、お皿を洗いながら音声入力してみました。

途中まではうまくいきましたが、スマホの画面が暗転してしまうとそれ以降は音声を認識しないことを知りませんでした。

夢中で喋っていても、その半分以上が記録されていないというのはせつないものです。

もう少しこの音声入力の方法についても調べる必要がありそうです。

ちなみに、流し台に向かって喋り続けている私に、とうとう3歳の娘が返事をしはじめたので、作業は一旦中断することになりました。

果たして私に安穏のアウトプットタイムはどこにあるのでしょう。

探求の日々は続きます。


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