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友愛の政治経済学――『Brotherhood Economics』冒頭の註解 4

 賀川は、本書『友愛の政治経済学』第1章の小題1を「いま問われているもの」と題した。では、何が問われているのか。それは、政治的・社会的・国際的・思想的な混乱と貧困である。彼はこれらを「カオス」と名指し、そのカオス中にこそ「キリスト教の使命」があるという。しかし、現在、その使命は「共産主義」が果たしている、と指摘した。

 続く、小題2「私の歩んできた道」で、賀川は「東洋性」を帯びた自身の来歴から「主観経済学」の必然性を導いて、「西洋=キリスト教社会」を相対化した。こうして、まさしく「brotherhood」として東西キリスト教が結集し、世界的な「経済=人間生活」の危機に立ち向かい、使命を果たすべきである。これが、前回までの要約となる。

31頁 「現代のキリスト教的プログラムのために何が必要なのか」

 これこそ、賀川の問いである。すなわち、1930年代後半の世界的な経済危機とキナ臭い不穏な空気と不信な時代状況において、なお語り得るアップデートされた「キリスト教」の提示。それこそが、彼にとって本書執筆の主たる動機なのだ。

 そしてアップデートされた新たな「キリスト教」のかたちこそ、「主観経済学」――友愛の政治経済学なのである。それは「経済に介入する宗教」という主張であった。医療・福祉・教育においてのみ、教会が社会参与するのではなく、その根幹である経済=人間生活を支え、改善してこそ、宗教は意味を持つと、賀川は考えた。彼にとって「キリスト教宣教」という固有の宗教言説は、その後に来るべき課題だ。まず宗教が経済と協働して社会的インフラとなるべきであり、その後に、個別具体的な宗教の特殊性が問題となるべきだ、というのが、賀川の主張の要諦だった。このあたり、いかにも賀川らしいユニークさが発露している。なお、第一章は以下のように構成される。

第1章 カオスからの抜け道はあるか
 1. いま問われているもの
 2. 私の歩んできた道
 3. 新しい道を目指して

 では、小題3より、賀川の言葉を抜粋して要約したい。前回までと同様、引用部分の括弧内「」が本文、地の文は解説のための補足である。

31-32頁 「ロシアには、思想、言論、職業選択、投票、信教、あるいは移住の自由は無い。革命初期には取引の自由さえなかった」
「ドイツ社会民主主義」は「なにも残さないまま、崩壊」
「英国労働党」「政治的社会主義は、マルクス主義的唯物論的社会主義以上のものではない」
「最近のロシア、ドイツ、英国の労働者政党の政府が、世界を現在のカオスから救い出して、いまや至上命題となっている経済再建を為しとげる力は持っていない」
米国「ニュー・ディールの「管理資本主義」に関連して、多くの人々の希望も大きく崩れ去った」「資本主義は、改善された形であって、恒久的な社会秩序に属するものではない」
資本主義「四つの特徴」は「収奪のシステム」「資本の蓄積」「勢力は支配階級に集中する」「無産の低賃金労働者が大半を占め増え続ける」

33頁 「プロレタリアートと上流階級のあいだの階級闘争によって」「不可避的に、唯物論的な共産主義を産み出すことになった資本主義の悲劇」「唯物論的共産主義も政治的社会主義も達成し得なかった、そして信条主義的キリスト教の力も及びえない、社会の再建の、新しい道を、探さなければならない」

 アメリカ資本主義の挫折、ロシア、ドイツ、英国での社会主義の失敗、マルクス主義とファシズムの台頭、日本の貧困。賀川は、これらの危機に対し、キリスト教信仰に基づいた経済構想を「新たな道」として、自身の来歴「私の歩んできた道」の先に広がる景色と接続して提示している。

『友愛の政治経済学』第一章のまとめ

 賀川は、キリスト教と科学の国である欧米において、人間生活の行き詰まり、すなわち未解決の様々な「貧困」を看取した。この問題を解決できるのは、キリスト教である。しかし、日本では少数派のキリスト教が宣教を進めるためには、西洋諸国の「経済」がキリスト教によって改善せねばならない。ところが、現在、人々の求めに答えているのは「マルクスの共産主義」である。本来ならば、キリスト者こそ世界「経済」問題に責任を持ち、運動を展開すべきである。賀川は、そう考えるに至った自身の来歴から「主観経済学」の必然性を導き、諸外国における政治的・社会的な行き詰まりに「新たな道」を提示しようとした。以上が、本書の第1章の要約である。

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本書の現代的意義

 では、本書をどう読むべきか。歴史的状況に即して、また賀川自身の目線から一貫して読めば、今まで註解したとおりである。賀川は、20世紀前半、1930年代後半の世界的な危機の感覚において、つまり、ある特定の時代状況に密着する形で、本書を問うた。

 では、21世紀現在、賀川の主張は意味を持たないだろうか。たしかに、第二次世界大戦は終わり、東西冷戦の時代も過ぎた。賀川の時代とは違い、欧州はEUとして一つの巨大経済圏となり、ソヴィエト連邦はもはや存在せず、アメリカ経済は破綻した。

 今世紀中に世界最大のキリスト教国となる共産主義国家・中国、世界最大の民主主義国家・インドの両国が人口において、世界の半数を席巻しつつある。東南アジア、南米、アフリカ諸国の経済成長と出生率は著しい。宗教的には、キリスト教とイスラム教の規模は世界を二分すると同時に、無神論・無宗教を標榜する人々もまた、ヒンドゥー教に次いで、世界第4位の「宗教」人口となった。技術革新については言うまでもないだろう。

 時代に密着して書き下ろされた本書の主張は、すでに前提条件を失っている。その意味では、本書もまた「その問いに従って」アップデートされる必要がある。

31頁 「現代のキリスト教的プログラムのために何が必要なのか」

 ますます混迷を極める21世紀の世界状況において、キリスト教の何をどう変革すれば、有効に語り、人々の支えとなるのだろうか。賀川は、続く第2章において「七つの要素」という謎めいた思想を展開する。「七要素」とは、生命、力、変化、成長、選択、法、目的である。

キリストはいろいろな譬話をしてゐられるが、要するに、そこには七つの要素しかない。我々が十字架が解らぬといふのが、それである。パウロが(中略)キリストが十字架の苦労をしたことを譬へていってゐるが、結局は七つのことを教へてゐるに過ぎない。『十字架に就ての瞑想』1923年 

 賀川独特の聖書解釈によって導かれた「七要素」は、宇宙と物質の柱梁構造であった。詳しくは、本書購読の楽しみとして、ここでは措く。しかし、このように賀川の宗教的「経済」思想が、宇宙論にいたるがゆえに、巨大な包摂性を持っていたことは明らかである。従って、本書における賀川の思想の現代的意義、その有効性もまた、その宇宙論的包摂性から発掘されざるを得ない。

 具体的には、賀川の経済思想は、宗教的「経済」思想の歴史的事例として意味がある。また、アブラハムの宗教に属する「経済」論としても、有効であろう。

 以上、賀川豊彦『友愛の政治経済学――Brotherhood Economics』冒頭について全4回にわたり、註解を行った。ご参考までにご笑覧頂けたならば、昨今、身の置き場ない「人文学」の駆け出し研究者としては幸いである。改めて、本書の目次を読み換えてしてみて頂きたい。目次の意味や構造が少し違って見えないだろうか。もし見えたならば、そこに人文学の醍醐味がある。

 次回は、番外編として「賀川豊彦の景教理解」について掲載し、本連載の終わりとしたい。(各記事リンク:、番外編)

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