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創造と進化

 「人類」という動物の強みとして「走る」「投げる」「食べる」ことがあるという。持久力、空間認識、分類の力に長けていた猿は、いつのまにか惑星表面を覆うようになった。

 これは進化の果てなのか。はたまた神の創造の帰結か。それとも「創造と進化」は、ともに神のみわざなのか。答えは各人各様に任せたい。

 朝食にしようと、昨晩つくった鶏すき鍋の残りを雑炊にして、ポン酢をかけながら思った。毒性が強く、他の動物が食べられないものを人類は食べることができるという。たしかにそうかもしれない。

 ポン酢は人類の叡智だ。しかし、ポン酢などの刺激ある調味料の成分、または長ネギや菊菜の苦味は、ある動物にとっては脅威となる。こんなに旨いのに。

 禅宗などのお寺には「不許葷酒入山門」とあり、酒や肉や香りの強い野菜を禁じているという。禁止は過剰な欲とセットだから、言い換えれば、仏教の食物規程リストは、そのまま旨いものリストでもある。

 詳しくは知らないが、仏教で五葷と呼ばれるニンニク、らっきょう、または寿司で馴染み深いワサビは、硫化アリルを含む。これは、いわゆる犬ねこタマネギ中毒などの元である。殺虫剤と同じで、ある特定生物にのみ反応する選択毒を持つものだ。おそらく、そういうものへの耐性の強さを人類はどこかで手に入れたのだ。

 では、どこで手に入れたのか。創造で?進化で?個人的には、進化という神のみわざの果てに、人はニンニクでもらっきょうでも食べられるようになった、と考えたい。つまり「消化と料理」は、創造と進化の別名でもある。

 何が食べられるか。この問いに導かれ、膨大な動植物を分類し、伝達する過程で、おそらく人類は音声言語を手に入れた。そして言語が文字絵画に転換するとき、神が顕われた。文字絵画という「記号と象徴」の持つ本質的特性ーー世代と地域を超えていく力ーーは、そのまま人の生涯を超えて、神への道を見せた。

 食べるために走っては投げ、何を食べられるかを分類した猿は、こうして「記号と象徴」を獲得し、万物の霊長の座についた。「消化」という生得的機能と、「料理」という消化を外在化する文化的本能で、文字通り、人類は世界を食べてきた。

神 ノアと其子等を祝して
之に曰たまひけるは
生よ増殖よ地に滿よ

地の諸の獸畜 天空の諸の鳥
地に匍ふ諸の物 海の諸の魚
汝等を畏れ汝等に懾かん
是等は汝等の手に與へらる

凡そ生る動物は
汝等の食となるべし
菜蔬のごとく
我之を皆汝等に與う
(創世記9章 文語訳)

 「ノアの洪水」の後、神は肉食を肯定している。世界各地に残る洪水の記憶が、氷河期直後の雪解けであるならば、それはそれで興味深い話だ。氷河期に食えるものは生きた獣くらいだったろうから。創世記9章「ノアと神の契約」は、他を殺して生きることへの赦しだったのかもしれない。そう思えば、人類史の記憶として聖書を読める気がしてくる。

 創造と進化、消化と料理と宗教と。とりとめもない人類史への思いつきが滋養とともに朝餉となってぼくの腹におさまっていく。日曜日だし、神を称えてもいいくらいには、外が晴れている。昼には何を食べようかな。

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