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剣法と男女平等

 まったく好みでない話題だが、ふと思ったので、メモしておく。「憲法」と「男女平等」である。

「男性が育児休暇とったら異動をかまされた」という話を、よりによってtwitterでみた。ぼくは豆腐のように柔らかいメンタルなので、twitterの瘴気にあたるとデトックスが必要となる。だから、これを書いている。

 なお、先にハッキリさせておく。性自認を問わず、誰もが同等の機会、待遇、社会的地位を得るべきだ。それについて、ぼくは完全に賛成しているし、同意している。

 しかし、それでも毎度のことながら「男女平等」を考えるとき、とくに「出産」が一番難しいなと思う。憲法に「出産」という単語が含まれているのか否か知らない。ただ、いわゆる「女性の自己選択権としての中絶」と「胎児の基本的人権としての生存」で争うように、そもそも明記できない問題なのだろう。

 「出産」は、権利とも義務とも言えない。そりゃそうだ。だって、男性はそもそも産めない。また女性にも産めない人や、産まない人もいる。つまり「出産」という事象自体の普遍性は、産んだ人、産みたい人、産んでもらう人だけに適用される。

 つまり「出産」には、現実問題として、人類にとっての食事や睡眠ほどの絶対的普遍性が存在しない。性欲の結果ではあっても、三大欲求の一つには含まれないのではないか。もちろん「出産」そのものを「性欲」とみなす人々がいることは分かる。男女なのだから=人間なのだから=異性を欲して子をなしたい、という前提だ。

 しかし、「性」が「人格」と分かち難い問題として存在する以上、そのような主張もまた難しいのではないか。なぜなら、本質的に「法」は、動物としてのヒト、文化をつくる人間の両方を包摂するものだからだ。

 言うまでもなく、産めない男女、産みたくない女、産まれたくない男女にとって、出産は、無関心の対象か、または害悪になる。「憲法」には、このあたりの事情が書かれていない。言い換えれば「出産」が、どういう理路で、基本的人権に含まれているのか、よく分からない。

 ところで憲法には「われらの子孫」みたいな表現がある。「子孫」という語がある以上、何かしらの生殖は前提されている。手段は明記されていないので、試験管ベビーを工場で合成、量産することは、とくに憲法上問題にはなっていないのだろう。

 もちろん、憲法のカイシャクシガーやら何やらがあるのだろう。そのあたりについて、ぼくは知らない。専門家の皆様にお任せしたい。

 さて、男女平等である。「両性」の本質的「平等」というとき、それが「出産」においては、具体的に意味する内容が不明になってしまう。

 産めない男女、産みたくない女、産みたくなかった女、産まれたくない男女は、たしかに存在する。彼らにとって「出産」における「両性」の本質的「平等」とは何なのか。いつも、ぼんやりとは考えては沈黙し、あきらめて終ってしまう。

 よい出産を望む人には祝福を。「出産」という事実そのものが、抑圧をもたらす産めない男女、産みたくない女、産みたくなかった女、産まれたくない男女にも「人権」を。

 または憲法を捨て、拳法と剣法を学ぶしかないのだろうか。

 出産は、どのような理路と前提で基本的人権と見なされるのか。産めない男女、産みたくない女、産みたくなかった女、産まれたくない男女にとって「出産」における「両性」の本質的「平等」とは何なのだろうか。

 あぁ、神よ!

※念のため、申し上げると、いわゆる「出産」を貶める意図は一切ありません。誤解なきように。ぼくの疑問は、基本的人権と出産の法理上の関係に対する、中学生のような素朴なものです。

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