見出し画像

王と民主主義

 アメリカにいた頃、「キリストの仲保者王権:Mediatorial Kingship of Christ」について聞くたびに「いや、でも、アメリカには王様いないやん…」と思っていた。英国には王室があるし、日本には天皇家がある。厳密には、ジョシュア・ノートン1世がおられたわけだが、それはここでは措いておこう。

 要するに、いわゆる王室などの旧権威を保持する国から来た者として素朴に思っていたのは、アメリカ人に王権を理解できるのか問題である。無論、英国から分岐した連中なので、まあ分かるだろう。しかし、キリストを王と仰ぐといった場合、そこには感情も含まれる。

 だから制度として王を持たない人々が、果たして、誠実な意味で王権を理解できるのか否か、よく分からなかった。ちなみに、この問いへの答えはアンビバレント、両義的である。相当に丁寧に時間をかけて真摯に学べば、王を戴かぬ人々であっても、身体反応としての崇敬と反感を理解できるだろう。つまり学術レベルで、修士号をひとつ持つくらいの程度で学んだならば、理解の糸口はあると思う。しかし、外から、さっと眺めた程度では、やはり理解は難しい。無論、比喩としては誰でも理解できる。

 そして、ふと思う。あぁ、民主主義というのは、結局、皆だれもが「王になる」ことなのだ、と。たしかにイスラエルにおいて栄華を極めたソロモン王よりも、現代人の生活は麗しく便利である。冷暖房つきの衣食住、自動車、飛行機、船舶。あらゆる技術面において当時を遥かにしのぎ、コンビニもあればゲームもある。そう思うと、誰もが「王の生活」を享受している。

 しかし、王が愚かだと国は亡ぶ。つまり、賢王のみが「王の生活」を享受するのにふさわしい。自律的に知識を学び、心身を鍛え、国と民と世界を思いやることのできる者だけが「王の生活」にふさわしい。

 現代生活は、旧約のソロモンでさえ驚愕する「王の生活」を一般人に与えた。賢人でなくとも、暮らしていける。賢人でないから、惰性で暮らす。賢人でないから、ソロモンのように存在の虚しさを見つめることができない。

 結果、国は亡ぶ。

 王と民主主義。誰もが王となった民主主義世界の必然は、国家の終わりなのだ。そういえば、パウロがこんなことを言っていた。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」、キリストや使徒性を抜きに自らを「賢くなった」と誇り高ぶっている。

 王政と民主主義。民主主義の主体的な実態が「王」であり、しかし、その王の多くは奴隷として搾取されながら暮らしている。民主主義とは「王」なき世界の哀しさ、国家の終焉の別名なのだ。

無料公開分は、お気持ちで投げ銭してくださいませ。研究用資料の購入費として頂戴します。非正規雇用で二つ仕事をしながら研究なので大変助かります。よろしくお願いいたします。