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修士号を持つことの哀しさ

 先日、とある大手出版社の友人と話していたら、こんな話を聞いた。なんでも「ある文章(2年前)の引用元が気に入らない」との問い合わせがあった。問い合わせヌシは、とくに購読者でも関係者でもない。商業出版社にはよくある話だ。いわゆるクレーマーである。肩書きは、欧州某国の修士卒。その他は氏名だけ。

 昨今の常である。早速、問い合わせをより正確に把握するために友人は検索してみたらしい。某巨大掲示板への本人による書き込みと、現在はyoutuberまがいのことをしているという情報と共に、その人の名前が出てきた。インターネットは便利だ。

 聞いていると、ふと気付く。ぼくの知る限りでは、通常、その分野で修士を取れば、だいたい仕事の分野は決まっている。なのに、その仕事に就いていないようだ。まあいろんな事情があるのだろう。その問い合わせヌシは、博士課程にいるのかもしれない。

 さらに詳しく聞くと、問い合わせの仕方が中々気持ち悪い。慇懃無礼なのだ。要約すれば、「~から引用されているが、~は悪名高いところであることは常識だ、~を引用するということは、~の信用を高めることになる、そのような行為は止めたほうが良い」である。笑ってしまったのは、この内容を、クレーマー氏が丁寧に疑問形で書いてきたことだ。

 友人の会社に対して知的にマウンティングをかましながら、相手の動きを自分の願う方に誘導するために疑問形を使用しているのだ。笑止千万、卑怯悪辣、姑息な人もいたものだ。

 言いたいことがあるなら、はっきりと明確に言えばよい。丁寧に疑問形で厭らしい方法で誘導するのではなく、「私はおまえのこの引用の仕方が気に入らない、許せない!ムキーッッ」と表現すればいいのだ。

 無論そのクレーマーの人生について、ぼくは何も知らない。とはいえ、察してしまった。イチャモンをつけられた友人の会社の文面を読んだが、要するに、そのクレーマー氏が卒業した学派とは違う学派からの引用だったのだ。つまり、「なんで我がとこからも引用せえへんのや!オオン?」が真意である。よくて輩、悪くてヤクザの論法だ。

 そして思う。わざわざ姑息なことをせずとも「我こそは海外の~大学修士様なるぞ、下々の民草よ、我が智慧を与えて進ぜよう、襟を正し背筋を伸ばし、正座して刮目傾聴せよ!震えよ!畏れと共に跪け!!」と言えばいいのだ。

 見るも哀れ、この無残なクレーマー氏のことを聞きながら、同時に、ぼくもそうだったな…と瞳の色を失いながら思い出す。そうそう、留学なんかしちゃって、何かイッパシの人物になれた気がして、自分は特別な何かだと勘違いしたくなったのだ。

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。どこで学ぼうがどこで何をやろうが、所詮は「修士」である。並みの博士課程1年目の院生には思考力が劣る。そして博士号を仮に取得しても、所詮は「博士」なのだ。人類と世界の全体のごく僅かな一部について、一時的に最先端の議論に参与した記録が残るだけ。

 結局、気付くことになる。凡百木端の粉微塵、ミジンコの排泄物にも満たぬ凡俗パンピーのぼくらが、天才や俊英と同じ土俵に立つためだけの頼りない楯、それが修士や博士であって、彼らの前では学位なんてものは、ほとんど意味をなさない。「本物」は世の中に存在するのだ。また残念ながら日本社会の一般的評価でいえば「(無駄に)長い間、学校にいただけ」である。

 もちろん専門高等教育は無意味ではない。たとえば、義務教育では、文字と四則演算、社会の仕組みのイメージを掴むことが致命的に重要だ。また高校教科書においては、とにかく事件・人物・事象の「名前」を覚えさせなくてはならない。たとえば、キューバ危機、素粒子、川端康成とか。

 続く学部教育では、覚えた「名前」の概要について理解することが重要になる。大学の卒業論文は、ある「名前」に関しての小さな議論を俯瞰することが求められる。

 修士では、この学問的な議論に少し噛んでみることが求められるし、博士では、その議論の全体を見渡した上でプレイヤーとなることが求められている。少なくとも、この高等教育が「制度」である以上、誰でも制度にのっかって応えれば、最低限のところまでは、知性を底上げしてくれる。したがって、高等教育は無意味ではない。

 修士を得て、十分に満足しているのなら、それで構わない。事実、理系でも文系でも修士卒/修士中退で、いい人生を送る人々はたくさんいる。しかし、自分に満足できなくて、自分が中途半端であることを知っているのは辛いことだ。その辛さが、海外在住なのに、わざわざ日本のメディアを読んで、イチャモンをつけるところに現われている。あゞ哀れなり、修士殿。ちなみに、ぼくは修士を二つも持っている。そんな中途半端なぼくがいうのだから間違いない。つまるところ、クレーマー氏の哀しみは、ぼくの哀しみでもあった。

 話は流れてしまったが、修士号を持つことの哀しさについて。結局「修士」なんてのは人生の内たった数年という僅かな季節なのだ。季節は変わり、風向きが変わることもある。

風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが
それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。

 たしか、ユダヤの大工が調子に乗って、こんなことを言ったはずだ。

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