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ネアンデルタールの神?――「メタ性」獲得の物語

 ぼくが「メタ性」を獲得したのは、いつごろだろう。かなり遅くて、おそらく25歳くらいではなかったか。翻せば、それまで相当にフェティッシュな、物神的な性格だった。実家と義務教育の場が近過ぎたせいもあり、ぼくの十代は、ほぼ半径数kmの範囲で事足りていた。メタ性を得るに至らぬ青少年時代は、そういう環境パラメータも関係していたかもしれない。

 明確にメタ性を修得したのは、明らかに「改革派神学」を学び始めたころだった。つまり、福音主義/福音派のエートス(信仰や生活実践)を、改革派神学の型を学ぶことで相対化した。30代半ばからは「キリスト教学」を学ぶことで、改革派神学を相対化することになった。こうして、ぼくは揺籃から起き上がり、歩き始めるようになった。メタ性とは、相対化して統合する力のことだ。

 最近『絶滅の人類史』という本を読んだ。約700万年の人類史を、ざっと巡ってくれるエセーだ。人類史には暗いので、大変勉強になった。今までに約25種類ほど人類がいて、直近の仲間ネアンデルタールは、約4万年ほど前にどこかへ去ってしまった。現生人類が、最後の一種だそうだ。

 著者によれば、進化のカギは「直立2足歩行」と「犬歯の縮小」にあるという。この二つを軸に、人類の化石を見ていくと、下半身の骨格変化と脳容量の変遷を確認できる、という。現生人類は、森林では負け組だったらしい。負け組であるがゆえに、危険を冒してまで直立2足歩行となり、両手の自由を手に入れた。その両手によって、負け組同士で食糧を分かち合うほどに平和な社会性が発達したという。

 このあたり、他の「四手類(霊長類)」と、四手類なのに両手しか使えないヒトの脳容量を比較すると見えてくるらしい。また著者いわく、戦争の痕跡は農耕以後にみられるという。興味深い話である。

 この本を読んだ翌日、たまたま聖書学者と珈琲を飲んだ。当然、聖書の「アダム」とは誰か、ネアンデルタールは「アダム」に含まれるのか否か、を問うた。つまり、ネアンデルタールの神の問題である。

 創世記6章「神の子ら(ネフィリム)」は、ホモ・サピエンス以外の人類の可能性はないか、と聖書学者は笑って答えた。よくある「アベルとカイン」を、遊牧民族と農耕民族の闘争の象徴と解する話に重ねるなら、アダムの系譜であるアベルは、ネアンデルタールと関わるのかもしれない。カルメル山の世界遺産ナハル・メアロットをどう理解するのか、という意味でも、このあたりの話は大変おもしろいと盛り上がった。

 余談ながら、この話題のあとに、アダムとアダパ、巨人オグの伝説などについても話したが、それは後日としよう。

 脳の形状から推察されるネアンデルタールには、ホモサピエンスほどの社会性がなかった可能性があるという。文法用語でいえば「三人称の世界」がなかったのだ。言うまでもなく「三人称」とは、「彼/彼女/それの単数と複数」という意味だ。アベルとカインに重ねると、たしかにそうかもしれない。アベルは、どこまでも神との関係だけを、我と汝の世界を生きた。しかし、カインは「自分は弟の番人か」と、固有名ではなく一般名詞を使って、神に問い返した。カインは、三人称の世界を生きていたのだ。

 大きくいえば、カインのような「三人称を伴う意識」こそ、ホモサピエンスの拭いがたい特徴なのだろう。そしてそれこそが、ホモサピエンスの最大の武器にして弱点なのかもしれない。

 動物として、個体としての生存本能に、進化のゆえに獲得した最大の武器「三人称の世界」が重なることで、ときに齟齬をきたす。その不整合、摩擦、軋轢が、ときに美しい弧を描き、複雑系を成して花開くとき、そこに文化が生れる。

 『科学者は神を信じられるか』の著者ジョン・ポーキングホーンは、著名な理論物理学者であり、聖公会司祭でもある。彼は、進化と重ねて「意識は、水の表面張力のようなものではないか」という。水分子はいくら集めても水分子なのだが、ある条件下で一定量が集合すると表面張力をもつ。「意識の発生」という進化も似たような現象ではないのか。なるほど、と思った。

 「三人称の意識」こそ、ぼくら人類が人類である所以ならば、何だか納得してしまう。「メタ性」とは「三人称の意識」自体を、名指して考える力に他ならないからだ。そして、そのメタ性こそが、人間の苦しみの根源でもあるのだ。

 ある一個の動物としては生存本能ゆえに、他を出し抜いてでも生存しようとする。すなわち「特別」であろうとする。しかし、もう一つの本能は、自己が「特別な存在ではない」ことを常々知らせてくる。本能と本能が葛藤し衝突し、その熱と破片が、ぼくらの悲喜交々を生成するのだ。こうして獲得した「メタ性」の物語は加速していく。悩んでいること自体が悩みとなっていく。関係から切り離され、自分で善悪を判断せねばならなくなってしまう。

 ぼくは人類の神を、アブラハムの神だと思っている。それはネアンデルタールの神でもあるのだろうか。聖書学者との雑談で出たように、ネアンデルタールが、カイン以前の平和な人々や「神の子ら」と呼ばれたネフィリムならば、彼らもまたぼくらの神と共にあるのだろう。

 ならば、ネアンデルタール以前の人類の神はどうだろう。ホモ・エレクトスには神がいたのだろうか。「メタ性」を獲得した自分の物語をふりかえる。昔日というには、あまりにも遠い古代の人々に思いを潜めていたら、紅茶が冷めてしまっていた。

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