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西洋近代的自我と「主の祈り」

 毎週末の宿直の合間に、これを書いているーー疲れて座り込む。明日のゴミ出しの準備をすませた。あとは台拭きと食器拭きをきれいに絞りハイターにつければ終わり。これで風呂に浸かって時計の針が回るまでは待機。

 風呂場の電気を点けるのも億劫で、脱衣所の薄暗いオレンジ灯のみで、さっと身体を洗い、風呂に浸かった。水音が響く。

 足を伸ばして目を閉じると、水音に暗闇が重なって、お湯の温度が身を包む。ため息をつく。

 ふと「主の祈り」が脳内をかすめていく。今朝もそうだった。何をどうしてもキリスト教徒なので、日曜の朝になると、自然と祈りが湧いてくる。およそ日本語で燻された祈りとして、もっとも美しく深いものは、カトリック典礼歌203から207だと思う。今朝もyoutubeで流した。そして夕方には職場にいて、毎週変わらず、一週間は一日のように過ぎていく。

 ぼんやりと揺蕩いながら「私たちも人を赦します」という、あの箇所を心に唱える。あぁ、そうか、そうだったのか。なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。西洋近代的自我に足りないもの、それは「赦し」なのだ。

 否、西洋近代的自我が起動するとき、本来持ち合わせるべき言葉が「赦して下さい/赦します」なのだ。少なくとも、あらゆる時空のキリスト教徒にとって、自我や主体は「赦し」という他者への開放性とともに起動しなくてはならない。

 おそらく「赦し」なしに起動した「自我/主体」は、不完全なのだ。なぜなら「赦し」なくして、人は神とも他者とも世界とも接続できないからだ。「赦し」こそ、「私」という心身の限界を定める語であり、また可能性への扉でもあるのだ。

 この数年、「弱い主体」について考えてきた。それは西洋近代的自我とキリスト教的主体が並立共存する水平線を探る試みだった。しかし、その答えはすでに「主の祈り」に凝縮されていた。

 そうだったのか。雲のようにモヤつく世事と些事が晴れていき、桜吹雪の向こうの視界が澄んでいく。また月曜日が来る。一週間が始まる。少しずつ前に進んでいく。

 散髪した頭は速く乾くよなぁ。そんなことを思いながら風呂を出た。再び、水音が響く。西洋近代的自我と「主の祈り」、桜が散り、緑が萌え出でようとしている。

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https://youtu.be/7IYCfI6FRmU



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