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友愛の政治経済学――『Brotherhood Economics』冒頭の註解 3

 本連載は、賀川豊彦『友愛の政治経済学(原著"Brotherhood Economics" (London, 1937)』の第一章までの要約と註解である。第1回では、経済学者・野尻武敏(1924-2018)の「監修者まえがき」から、本書の特徴と方向性を述べた。第2回では「序文」と第1章の小題1「いま問われているもの」を解説した。まず前回までのまとめを置く。

 なお、第1章は三つの小題で構成される。前回までと同様、引用部分の括弧内「」が本文、地の文は解説のための補足である。

第1章 カオスからの抜け道はあるか
 1. いま問われているもの
 2. 私の歩んできた道
 3. 新しい道を目指して

前回まとめ

 序文において、賀川は「キリスト教」の存在意義として社会参与を訴えて「経済=生活」の改善を問い、「主観経済学」を選択肢として提示する。

 「主観経済学」とは、「経済する人間の側から目的論的に捉える経済学(監修者・野尻)」である。決定論的な唯物論を拝して、理想主義的な唯心論の立場をとり、人格と兄弟愛の経済活動と経済社会の形成が求める「経済学」である。その実現が「協同組合」を入れた社会の構想であった。

「キリスト教国は文明国」であるにもかかわらず、「なぜこれらの国々で戦争が絶えず、社会はいつまでも失業や恐慌の脅威にさらされ続けているのだろうか。東洋人がキリスト教に接するとき、先ずこのことに疑問を持つ」「教会が人間の生活全体を満足させる福音を説いてはいない」「マルクスの共産主義が勃興してきた理由もそこにある」。「教会を正しい道に連れ戻すための神の鞭のようにイスラームが出現」した。「革命的な共産主義が私たちを鞭打ち、教会の真の使命へと…覚醒させてくれる」。「キリスト者は世界的な友愛運動」、「愛の有効な行動を展開することによって、この挑戦に対応」すべきである。

 賀川は『友愛の政治経済学』冒頭で、「いま問われているもの」は、政治的、社会的、国際的、思想的な混乱と貧困だという。彼は、それを「カオス」として名指し、カオスの最中にある「キリスト教の使命」を、共産主義が果たしている、と指摘している。

 では、小題2において、彼は何を展開したのか。賀川は「友愛の政治経済学」構想の必然性を述べるために、自身の来歴を開陳している。

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小題2:私の歩んで来た道

  まず概略しておく。小題2「私の歩んできた道」において、賀川は、自身の来歴を「証し」として語りながら、「主観経済学」の必然性を問うている。「景教」を引き合いに出すことで、「西洋=キリスト教社会」を相対化してみせて、東西キリスト教が結集して、世界的な危機に立ち向かい、使命を果たすことを米国教会と社会に求めている。「景教」理解については、番外編で扱う。

22頁 「東洋には、ちょうど1300年ほど前、ネストリウス派のキリスト教が存在した…ただ教理を説いて、キリストの愛を教えようとしなかった」「75年前、最初の宣教師がアメリカから来日した」「禁教の理由」は「政治的侵略が続いて行われるのはないかと恐れた」「キリスト教国はいまなお東洋諸国を経済的・政治的に侵略しており、…古来の偏見を呼び覚ましている」

23-24頁 「日本に五つのものをもたらしたキリスト教」「純潔、理想的平和、霊的祝福、労働の尊重、…神への人格的敬虔の真心」「少年時代」は「地獄」「あるアメリカ人宣教師」に出会い「山上の説教のなかの数節を暗記」「極めて神秘的な力が存在することを発見したのである。この力とは創造主にほかならない」「天の神に祈ることをし始め」「私はよい人間になれる、と信じた」「神を信じていますか」「キリストを信じていますか」「祈っていますか」「君は臆病だね」「私は洗礼を受けた」

25-26頁 「君の病気は伝染する。しかし、愛はもっと伝染する」「労働者が殺され、幽霊となって出没するという噂」「残念なことに幽霊は表れなかった」「私は勇敢で、幽霊を追い出す超自然的な力を持っているとだれもが言った」「必要な糧を今日も与えてください。(マタイ6.11)もし食べ物が豊富であったら、この主の祈りの意味は絶対に分からない」

27頁 「スラムの多くの貧しい人々」「肉体的弱者」「精神的弱者」「道徳的弱者」「これら三つの弱さである。それゆえ、無料診療所、教育、福音宣教の3種類のキリスト教の働きが必要」「私は戦術を変えた」「経済システムに変革が起こらないかぎり、スラムを変えることは絶対に不可能」「ロシアから共産主義が日本に入ってきて」「個人的な救いのみでなく、社会的な救済において、イエス・キリストの救済力のリアリティーを示さねばならない」

28-29頁 「消費協同組合、質庫信用組合、学生信用協同組合を組織」「日本は変わりつつある」「宗教の復興を経験」「物質主義を好まない」「唯物論を信頼していない」「社会活動家の多くがキリスト者」「仏教の社会奉仕組織でもキリスト者が働いている」「イエスが大工であり、肉体労働者」「キリストが日本にやって来たがゆえに、労働者や農民はより豊かな生活ができるようになった」「偏見は日本においてきわめて強く、根深いが、贖罪愛の素晴らしい実例を示している宣教師たち」「教会には30万人のキリスト者がいるだけ」「1,800の教会」「村々には3,000万人…9,000の村…僅か170の伝道所があるだけ」「今でも、550万人の農民たちが貧しく悲惨な状態にある」「漁師は150万人」「1人の宣教師、1人の伝道者もいない」「カール・マルクスは、今日、ロシアを別とすれば、他のどの国においてよりもよく読まれている」

30頁 「キリスト教は世界をカオスから救うことはできないと主張する唯物論的な共産主義のキリスト教批判に、率直に向き合わねばならない」「宗教は阿片であるというモスクワの執拗な主張」「日本では、キリスト教は「裏切り者の宗教」」「ヨーロッパの経済的、政治的勢力の極東への拡張と結びあう」「先見の明のある若者たちだけがキリスト教に仲間入りする決心をした」「私はこれらの急進的な人々のうち、キリスト者として踏みとどまった、ほとんど唯一の者である」「失望のうちにキリストから共産主義に転向していった、私と同世代のこれら若き日本人指導者らは、私の最も親しみを感じる精神的兄弟である」「貧困に苦しむ祖国のために」

31頁 「諸問題の徹底的な解決をもとめている」「再びキリストへと連れ戻すまで」「現代のキリスト教的プログラムのために何が必要なのか」

註解

• 「75年前、最初の宣教師がアメリカから来日した」「禁教の理由」「政治的侵略が続いて行われるのはないかと恐れた」「キリスト教国はいまなお東洋諸国を経済的・政治的に侵略しており、…古来の偏見を呼び覚ましている」 
→「侵略を恐れた」のは事実ながら、これに付随して語られがちな「宣教師による人身売買が弾圧の理由となった」というのは言い過ぎか。当時「人身売買」は一般的に行われていた。江戸幕府による宗教政策は「他宗派への誹謗中傷の厳禁」であって、とくにキリシタンに限らず、仏教宗派も弾圧されている。

• 「極めて神秘的な力が存在することを発見した… この力とは創造主」「天の神に祈ることをし始めた」「私はよい人間になれる、と信じた」 →賀川「信仰」の創造論的な性格、模範的キリスト論がよく表れている。
「神を…キリストを信じていますか」「祈っていますか」「君は臆病だね」「私は洗礼を受けた」 →神との関係は「宗教」の確認であり、キリストに関する問いは「特定の宗教への忠誠」の確認であり、祈りについての問いかけは「神との人格的関係=キリスト教信仰」の確認である。古プリンストン学派/オランダ改革派などによく見られる、典型的な信仰的エートスが現われている。

• 「必要な糧を今日も与えてください。(マタイ6.11)もし食べ物が豊富であったら、この主の祈りの意味は絶対に分からない」 →賀川神学の素材として、聖書・理性・歴史のみならず、貧民窟での特異な「経験」があることが見受けられる。

• 「肉体的弱者」「精神的弱者」「道徳的弱者」「無料診療所、教育、福音宣教の3種類のキリスト教の働きが必要」 →伝統的なキリスト教宣教の方法論。
「私は戦術を変えた」「経済システムに変革が起こらないかぎり、スラムを変えることは絶対に不可能」「ロシアから共産主義が日本に入ってきて」「個人的な救いのみでなく、社会的な救済において、イエス・キリストの救済力のリアリティーを示さねばならない」 →社会変革への志向は「改革派」的、または「解放の神学」的といえる。日本においては、福音派/社会派という、教会を二分した潮流以前に、両者を体現していたのが、賀川とも見れる。

• 「イエスが大工であり、肉体労働者」 →賀川の聖書解釈の特徴として、「労働者イエス」への注目がある。

• 「今でも、550万人の農民たちが貧しく悲惨な状態にある」「漁師は150万人」「1人の宣教師、1人の伝道者もいない」 →第一次産業従事者への宣教の不足。日本開国初期の経緯などは、隅谷三喜男『近代日本の形成とキリスト教』 (新教新書、1997)に詳しい。

• 「先見の明のある若者たちだけがキリスト教に仲間入りする決心をした」「私はこれらの急進的な人々のうち、キリスト者として踏みとどまった、ほとんど唯一の者である」「失望のうちにキリストから共産主義に転向していった、私と同世代のこれら若き日本人指導者らは、私の最も親しみを感じる精神的兄弟である」 →賀川より上の世代で「転向」したと見なせるのは、片山潜(1859-1933)、木下尚江(1869-1937)らである。賀川の同世代でキリスト教に留まった者は、片山哲(1887-1978:第46代総理、1947-’48に約9カ月の在任)、九津 見房子(1890-1980)らが挙げられる。

日本と世界の「諸問題の徹底的な解決をもとめている」彼らのような人々を「再びキリストへと連れ戻すまで」「現代のキリスト教的プログラムのために何が必要なのか」 →本書執筆の私的な動機といえる。

 「小題2」の注目すべき点は、賀川が「東洋」性を前面に打ち出しつつ、同時に、自らの出自を「西洋=キリスト教社会」の子だとしつつ、米国のキリスト教社会を相対化している点である。相対化の目的は、マルクス主義に対する、東西キリスト教会の協働である。そして、協働の先に、日本の社会主義者やマルクス主義者という、賀川の精神的兄弟への伝道が置かれている。言い換えれば、賀川の「キリスト教伝道」論の型を、ここに見ることができる。

 裏返していえば、あらゆる非キリスト教国にとって、キリスト教との接点は、多くの場合、医療・福祉・教育である。賀川は、そこを抑えた上で「経済」を見据えている。「福音宣教」は、その後に来ているあたりに、賀川のユニークさが伺えよう。(次回4に続く。、3、4、番外編)

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