「本心」をよんだ
友人でも家族でも誰でも良いが一人思い浮かべる。
思い浮かべた人との過去の対話の中でその人の発言で頭に残っているものがあるだろうか。
その発言の本心を私達は本当に理解できているのだろうか。
ありとあらゆる事象は自己を投影してしか認識できない。自分の思うリンゴと他者が思うリンゴは本質的に同じではないのと同様に。
発言には、発言者がこれまでの人生を通して得た考えや思想が複雑に込められている。対人コミュニケーションにおいては言葉で許された表現がメインとなるため情報量も必然的に削ぎ落とされている。そうしたことを考えると、他者の発言の本質的な意味を理解するのは難しいのではないだろうか。
他者に関して「本心」を理解することが難しいことはわかった。
では自分に対しての本心は理解できているのだろうか。
自分の口から出た表現は、自分が知る表現に限定されるため、本心と乖離があるのではないか。
さらに、思考は直近で関わった他者や環境の影響を強く受ける。社会の風潮に流されて「そう思わされているだけ」という見方もできるのではないか。そうなったときに自分のアイデンティティはどこにあるのだろうか。
話が見えなくなっているが、自分が「本心」を読んでまず思ったことである。
この小説は亡くなった「母」が生前に「自由死(≒死にたい)」に関する話を主人公にしていたがその本心を聞けぬまま交通事故で死んでしまったところから始まる。
母を失った孤独感と自由死の本心を聞くためにVF(Vertual Figure)としてAIの母を作り出し生前「母」に関わった人との対話を通して「母」の他者性に向き合い本心に迫るという話であった。
ここでいう他者性は自分の知っている「母」とは違う「母」を知っていくというニュアンスで自分は考えている。
知らない「母」を知ることで本心に迫っていくというのも、もちろん面白いのだが、主人公の「発言」とそれに至るまでの思考が逐次描かれている箇所も没入間があり面白かった(普段小説読まないだけで小説は本来こういうものだっけ?)。
主人公に没入することで人間の出す言葉って思っていることと全然一致してないなと思った。
そこからそもそも自分の本心もわかっているようでわかっていないんじゃないかなと思い上述の自分の本心とか本当はわかってないんじゃないかという考えに至った。
「じゃあ本心は何なんですか?」と問われると現状ではこうという曖昧な言い方になると思う。常に移ろうものでタイミングによって変わってしまうものだし、直近の出来事でのバイアスを受けている可能性が高い。
その時々で自分の本心は何か?を問うて見つめ合うことで本心に近づいていけると思う。
あ、つまりちゃんと自分の心とその反応に向き合おうねということ。
小説なのに実用的な話に落とし込んでしまった、、ごめん。
まとめとして「本心」は近未来の生活を表しているようでSFとしての面白みと話の主軸である「本心」に迫っていくストーリーは面白かった。自分に対しても考えを深める良いきっかけになったので小説と触れる機会も増やしたいな。
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