あみもの短歌(一首評)

ウオーシャンシー 呟く夜の浴槽は だんだん冬の温度に溶ける/鈴木智子

風呂に入ろう茜色過ぎる空 狭いバスタブ交互に入って/小俵鱚太

一首評なのですが、イメージがちょっと似ているなあと思いふたつ引かせていただきました。(すみません)

短歌、って何なのかなあと考えてみて、たぶん感情をこめて伝えるものなんだろうなあと思う。「歌」だから、多分。喜怒哀楽ともつかないなんともいえない感覚。双方向性のない、ゆいいつのたたずまい。だから「ああ、この人はこういうことをイメージしているんだろうなあ」というのがきれいにシンプルに伝わってくる短歌はこころに届くなあと思うのです。それで、まず鈴木さんの連作は全体がしっかりとしたイメージを、ちゃんと選ばれた言葉に載せているなあと感じて読みました。
カタカナ語はじまりのうた、わたしは好きでけっこう作ってしまうのですが「ウオーシャンシー」ってなんだろうと思い調べてみました…たぶん、「オーシャン&シー」のことだな…と思いました。(※教えていただいたのですが中国語で「我想死」とのことでした。すみません…。)響きが良いですよね。それからバスタブ、冬、溶けてく、その冬とバスタブと自分が一体になった感覚や景色が目に浮かんでくるような、作者の「引き」っていうか「ズームアウト」のような目線が良いなあと思いました。考えてみると何か書くとき、ズームアウトするときもあればズームインするときもあり、この歌は視覚と冬の寒さを思うひとりきりの感覚に訴えてくる感じがしました。

それから、小俵さんの連作は、落ち着いて感情を歌っているようにみえて好感が持てました。本来浴槽に入っていたら外の空なんかは見えないけれど、外から歩いて帰ってきたらずっと外の空気や天気が体にまとわりついてくるようなことってあります。マンションだけど今ずっと二階にわたし居るわって思っているし、曇りの時は電気を点けてもやはりどんよりしていたり。「茜色過ぎる空」の色、が外を歩いているうちに直接こころに届いて、いま二人は部屋に戻ったあとも茜色の気持ちになっているのかもしれなく、でもそれは伝えるべき言葉を持たない。それで、多くを語らないまま、二人のするべきこととして交互にバスタブに入る。ああ、これは短歌だなあ歌なんだなあ、って思いました。

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ポエム、詩、短歌などを作ります。 最近歴史に興味があります。