(短歌)私性について整理しました

こんにちは。元号が、令和に変わってから数週間たちました。この元号、万葉集から引用されたものだとして大分話題になりましたね。

それと関連して、少し前に万葉秀歌についての感想というのをこのnote内でひそかに書いていました。記事ひとつ更新したまま、その後月日は忙しいままに流れ、今はお気に入りの歌集を毎日舐めまわすように読むということを繰り返していたのですが今日、万葉秀歌を久しぶりに手に取ってみました。そしてやはり、さすがだなあと思い、満足する気持ちになりました。
そもそも万葉集を詠みはじめたのは、岡井隆の著書に、迷ったら万葉集を開くべしという記述があったからです。この万葉秀歌では昔の人たちの言葉に対して込められた思いはもちろんのこと、この原文を現代語に書き起こした方々の努力のたまものもあり、言葉の流れがうつくしく、また意味の面から言っても掛け違えている部分がありません。この「古典」は繰り返し読まれて間違いないものなのだとあらためて感じました。

ところで、今「私性」について色々と考えていました。わたしの、この私性、それからそもそも現代短歌が着地している場所に対する認識が変わったのは、最近で言えば村木道彦さんの存在だったと思います。
それまで、個人的に題詠みを毎日行なっていたわたしはとにかく言葉を深く考えることをすることにこだわり短歌を作っていたのですが、(今思えばそれも練習のひとつとして役立ちますが)村木道彦さんの歌集を読んでから「心に沿って詠む」ことに寄り添うという視点が加わりました。
視点が変わったのは彼との出会いで、そういう視点を持ってからほかの歌集を読むようになり、それがあるもの、ないもの、様々ありましたが、あるものの方が格段によい歌に見えるのである。そして、そういうものは、詠むだけで、こころが満たされる。何故だろう?それはきっと、「歌だから」なのだった。
ああ、私性ってこういうことか…と徐々に腑に落ち始めた気がします。

短歌は歌なので、人が口から出る言葉で詠むものだと思います。それは、岡井隆の言う「短歌の背後に一人の作者という顔が見える」という認識です。それを自転車を乗るようにして意識しながら詠む。「自分自身の描写をする」のとは微妙に違います。短歌にはまりがちなひとつの落とし穴はここにあるかもしれません。これを間違えて意識してしまうと「わたし、わたし、とにかくわたし」で「わたし、ウルサいよ!」な短歌が出来てしまいがちなのである…。私性という明確でない、けれど確かに存在するものを説明するため岡井さん自身の表現も、このような「背後に」と付け加えるものになったのかもしれません。

多分。

では私性がそのようなものなら写実はどうなるのか、もしくは自然詠はどうなるのかという問題が出てきますが、これに対しては「厳密な決まりはない」という感じなのでしょうか。現に、歌を詠む、喋ってるふうではなくひとつの事象、あるいは空想や描写にとどまる短歌もひょっこり入り込んでいたりします。わたしはこの部分、いいかげんというかひとつのラフな感じを面白いと感じてしまい、それから万葉秀歌のことを思い出したのでした。
つまり、日本語において主語は省略されるもの、ということ。現に、万葉集では主語がないものも多く見られ、誰が誰に対して話しているのか不明な形で、もしくは隠されていることもままある。万葉秀歌を読んだ最初の記事でも書きましたが万葉集は主体を情景になぞらえて読んでいるものが多く、まるでそのなかに主体が隠されてしまったかのような感覚があると思います。何故か、というと、日本がそういった風土だからでしょう。
なので、文章でもWeとIを混同する、もしくは省略してしまう日本人の文化で、私性について語るのはもともと難しい、なぜなら日常的に、あたりまえに、意識しないで話しているからなのだと思います。(このことからも岡井さんの背後に意識するという表現は的確だと言えます。)

私性についてはっきりとした定義を述べているものは意外に少なく、そこに虚構、前衛短歌、私小説に対する認識などが入り込んで来てなかなか整理整頓はされていないという印象でした。
また自分の身の回りに起きた事柄を詠むというのはライトバースとも言われ、これも混同しやすいのですがとにかくその辺の短歌ならではの定義をはっきりと掴むのは読みまくり、詠みまくるしかないのでしょう。何故なら、人によって定義が違っていたりするから。なんと、まあ、そのへんはあやふや…だったり、実はするのではないでしょうか。わたしが意見するとしたら、「岡井さんの著書を買って勉強するのが間違いない」ということです。笑
わたしは二、三回読み直しましたが、未だに抜け落ちていたりしてなかなか理解したとしてもそれを身に付けて歌として詠むのは難しいです。けれど短歌は決まりが多く、難しく、だからこそ面白みのあるものです。

ライトバースその対義語としては普通の短歌が置かれていますが、これについてはあまり気にしている人も少ないように思います。さらにはニューウェーブなる言葉も出てきて、え、ニューウェーブってライトバースを読んでいる人たちで、それが今の全体的な流れなの?と感じたりもしますが、それもまた違うと思います。ライトバースを端的に陳腐、重厚と区別するのとも違い、これは短歌が文芸としての価値を持ちうるかどうかという考えに繋がる定義として用いられているように思います。生活詠といえば分かりやすいかもしれません。
短歌において、古典は現代でも生きています。が、紹介されるものが正しい、きれいだとは限らないとも思っています。古典については自分で探すのが正解だと思います。

私小説的な流れ、それから主体の現状を報告するような歌が多く見られるのは、私性の問題とは違うのでは、と思うのですがいかがでしょうか。わたしはこれは、発表の場が結社という顔の見える集合体で行われてることが多いからかもしれないと思います。わたしはこのことと、私性、私小説がいっしょくたに語られている文を目にして、ちょっと(ん?)と感じたのであった。そんなに、私小説史上主義のような流れはあったっけ…???けれど確かに、自分の身の回りの事実→◯で、虚構などを入れ込んだ主体の分かりにくいもの→×とうっかりすると語ってしまいそうな流れは時々ありますが、じゃあライトバースと、そうでない歌との区別は?と、身の回り=ライトバースなのでは??ライトバースは歌とは区別すると岡井さんはおっしゃっていたのでは?ということについてはどうなるのだろう。
(ついでに。林真理子さんの白蓮れんれんでも、また枡野浩一さんのショート・ソングでも、結社内の社交は短歌を作るうえで大きな要素として描かれています。側からみるとおどろくかもしれませんが、そういう文化なのです。)

虚構についても見てみたのですが、わたしもこの辺は以前はごちゃごちゃになっていたのですが虚構イコール「心情をより、細かくこころに沿って表した」と言えるのではないかと思いはじめました。どうでしょうか。これは、仮定なのですが…つまり、虚構は大まかに言って暗喩をベースとして作者の感情を表している、と言えるのでは。暗喩というのは万葉集でもあるこころなので、間違えているとは言えません。そこには作者のこころがあり、私性の存在があります。と言っても「メタファーだよ、メタファー」などと称してあり得ないことばかり並べ立ててはそもそも、文として破綻してしまうのは歌以前の当たり前のことなのですが、この虚構、というか暗喩にも繋がる部分は直喩というものの対比と、それから写実と虚構とに区別して語っているものってあるのでしょうか。岡井さんは、現代短歌は暗喩を駆使することにこだわる流れがあるともおっしゃっていますが確かに、暗喩を使って伝えるのはひとつの技術と捉えられる感じはあります。(であるとは言っていません。そういう感覚はあるところにはあります)虚構を心情を表すのに使った場合、つまりそこに作者は確かに存在しているのではないでしょうか。

この「隠れている作者という主体と、日本語における主語の性質」について考えることはなかなか面白いなあと感じました。

最後に、あまり関係はありませんが先日俳句の本を手にとってみたら、そこには私性の存在が見られなかったのでした。そこには写実があり、わたしは描かれて居らず、端的な表現が並び結び付けられているのは「ような」の省略された直喩のようにも見えます。
※ここまで書いて、「え?比喩って一体何?」みたいな感覚に陥ってきた。

私性というのは短歌独特の文化だったんですね。
まだ二年目ですか、短歌については未だ未だ知らないことばかりである。…

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ポエム、詩、短歌などを作ります。 最近歴史に興味があります。