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雑記_2011年_日記・器量・朱子学


精神科

ストレスのためか、消化器系統の不良のためか、頭痛と腹痛がひどいときがある。体調が悪いこと自体は仕方のない面もあるが、原因がよくわからない・予測できないのが難儀である。また、不眠に悩まされたこともないため、鬱病というわけでもないらしい。

おかしな(しかしショボい)生活上のエピソードには事欠かないが、そもそも何がアスペルガー的で何がそうでないのかよくわからない。月に一度診察を受けているが、そのときはなるべく自分でアスペルガーっぽいエピソードを抽出してきて話をする他ないわけである(話を作りたいわけではないが、アスペルガーっぽくないところを抽出するわけには行くまい)。それで、大抵は話を自己完結させて済ませている。なお、診察を受けるときに発する私の第一声は「吾輩はナポレオンである。名前はまだない。そもそも余がエジプト遠征に出奔したる折に……」である。

役所

区役所で保険料を収めた。左京区役所は以前より自宅の近くに移転しており、深草は旧区役所まで行ってしまったため、大幅に遠回りに行くことになってしまった。新庁舎は京都工芸繊維大学のそばにあり、随分と小綺麗な建物になっておった。

担当者の植田勝治氏に処理をして頂いた。それにしても銀行強盗というものはよく人口に膾炙(かいしゃ)しておるが、強盗が役所に押し入った例はあまり聞かぬ。監視カメラもないようであるし、割と簡単に制圧できるのではないかなどと考えておった。

器量

人間には分(ぶ)というものがあり、貫禄、貫目(かんめ)というものがあり、器量、器(うつわ)というものがある。「人間力」とか「リーダーシップ(影響力)」、「面子」と呼ばれるものとも大いに重なる部分があるだろうし、それらは才能だけではなくて或る種の後天的に獲得される技術の裏付けがあって初めて担保され、集団の中で認められる類のものでもあろう。「そんなワケノワカラヌ不合理なものに翻弄されてたまるか」と憤る諸氏もおられるであろうが、とにかくあるものはあるのだから仕様がない。それを科学的に解釈しようが神秘的に解釈しようがあるもんはあるのである(勿論無いヤツには無いが)。

たとえば年齢は「器」の一種の指標である。例外も多いが、年齢を重ねた者は経験も豊富で社会的な影響力があるであろうと推測される。また、地位・名声・収入も「器」の指標である。目下の者が目上の者に挑戦するのは器による位階秩序が逆転しようとしているのであり、ジェイコブのごときが永井氏にかみつくがごときはそれであろう。目下のジェイコブには目下の利があって、目上の永井氏がこれを相手にしようとすれば、「大人気ない」との謗(そし)りを受ける危険がある(そういう危険がないのは学問の世界など局所的な条件をつけた場合だけである)。逆に、ジェイコブが一介のNEETに過ぎぬ谷口氏に永井氏に対するのと同じ意気込みでかみつくとすれば、やはりジェイコブに「大人気ない」との評判は避けられないであろう。

もちろん学問的な弁論では平等な条件の下でフェア・プレイが望ましいとされるのだが、「必死な顔」をしてはいけないのである。目上の者にはやはり余裕とユーモアが大切であろう。例えば、マフィアのボス然とした風格のベルルスコーニ伊首相の話術などを見習いたいものである。

プロとアマ

漱石の「則天去私」の掛軸は有名である。則天去私とは人欲(=情)を去り、天理(=性)に則(のっと)るということであろう。朱子学のことを別名「新儒教」とも呼ぶそうだが、それ以前の旧儒教では「聖人」は堯帝・舜帝など古代の聖人のみを指したのである。ところが、朱子学になると、聖人君子はなんと修行すれば成ることができるとされたのである。集中して古典を勉強(居敬)し、事物の理を探求(窮理)すれば、人欲を去り、天理に存することができる。それすなわち、聖人になれるわけである。しかし、人欲を去ってしまうとは、おお勇者よなんとも薄「情」な話ではなかろうか。そのような聖人君子などキョンシーのようなものである。つまり、泰西の哲学的ゾンビとやらに対抗して「聖人キョンシー」「則天キョンシー」が考えられるであろう。

そんなエリート主義志向の朱子学科挙のテキストにも指定され、御用学問となった。さて、時代が下って王陽明氏が現れると、朱子学に不満を持った。恐らく無情なるキョンシーには共感できなかったのであろう。すべての根本である「理(=太極)」には、性(=天理)のみならず情(=人欲)も含まれるとしたのである。そうなると、そもそも聖人になるために頑張る必要はない。自らの性と情、すなわち合わせて「心」を格(ただ)せばOKなのである。

そういうわけで、哲学討論会「哲学道場」もアマチュア志向ではあるが、プロフェッショナルだからといって見くびったりせずに、「みんな常に/既にアマチュアなのである」という詭弁も弄してみるのもおもしろかろうと思ったりするのである。

戯作

文章というのは腕で書くもので、つまりは筋力がなければ話にならない。自分がかたちにできるものと言えば文章ぐらいなので、内容やらクオリティはともかく量を書けるようにメンテナンスが必要だということで短編小説を書く会に参加している。

小説というものはこれまでも様々な指南書などを読んで発想法や構成法を訓練してみたが、質を問わないにしても、深草にはなかなかスラスラと書けるようになるものではないようだ。主人公にいきなり「俺はちゃきちゃきの江戸っ子でーい☆」などと地の文で言わせると恥ずかしくてお花畑をゴロゴロ転がってうわあっと叫んでしまいたい。恥ずかちい恥ずかちい。うっかり煮えたぎった釜の油に飛び込んでコンガリ・カラッと揚げたてホカホカになりたいぐらい懊悩纏縛苦悩呻吟嗚咽煩悶(おうのう・てんばく・くのう・しんぎん・おえつ・はんもん)してしまうのである。

しかし、もうそんな恥ずかしがっている歳ではないのである。いや恥ずかしがっている歳ではないから恥ずかしいのだろうか。アスペルガー症候群だから恥ずかしいのだろうか。むしろアスペルガー症候群だからこの程度の恥ずかしさで済んでいるのであろうか。そんなこまけーこたあいいんだよ!とばかりにエイヤッと書いてしまうのがまず大事なのでアローの不可能性定理。

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