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人間の一生は何かの反復か?

人間の一生は何の反復か?というと、何の反復でもない。なぜならば、毎日まったく同じことは起こらないからだ。

純粋な反復は無く「反復」はみなしである

類似のことを起こして反復にしようという集団の努力や、毎日同じメニューで心身を鍛えるために習慣をつくろうという個人の努力はある。けれども、それでも常にイレギュラーが挟まる。思い通りに反復できないことは当たり前のことで、それを織り込んで余裕をもたせておくのが普通である。余裕でごまかせる部分は本当は同じことの繰り返しではない。繰り返しではないが、「反復」とみなすことで我々は自分自身の生活を言わば省略して反復回数などの数字で要約して捉えることができる。

そして、一定の「反復」がおこなわれたとみなした後はレベルアップした次の反復へと移行する計画などを立案する人もいるのだが、さあ、そんなに計画通りにもいかないものだ。そうやって「失敗」ばかりしていると、次第に悲観的に思えて来て、自分自身を憐れみたくなるかもしれない。それでも、「失敗」ばかりであるというのは誤った認識である。なぜならば、まず一定の成功が前段に無ければ、トライするための条件が揃っていなければ、そもそも失敗することもあり得ないからであり、次に同じ「失敗」にみえても実際には抽象的に同じ「失敗」とみなしているだけで、観察力次第ではそれぞれ異なる部分で失敗しているからである。

一生を射程範囲に入れる自己憐憫

こうして細々(こまごま)と異なる点を挙げ連ねて「昨日と今日は違う!今日と明日も違う!だから昨日起こったイヤなことが明日も起こり、明後日も起こるなんてことは杞憂(きゆう)だ!」と分析してみても、それでも視野狭窄になってしまう。それが人間であり、人情というものである。つまり、自分が「一昨日も機能も繰り返した失敗を明日も明後日も、その後一生繰り返していき、なんなら、年老いてさらに悪い繰り返しになっていってしまうんだ」と悲観することがある。それでも、そのようなことはそもそも事実ではないし、将来にわたって事実になることはない。なぜならば、歴史ですら繰り返さず、せいぜい「韻を踏む」(マーク・トウェイン)程度なのに、あなた一人のミクロな毎日が同じことの再現をずっと続けることは無いからである。

ひょっとしたら、同じ場所から動かないでいることはできるかもしれない。そうすれば、周囲の物の位置は同じなのだから、あなたにとっては周囲のモノはずっと同じありかたをしていて、あなた自身も同じありかたを維持し続けられているだろう。あなたがひどく鈍感な人物であれば、それで「これが一生続くのかもしれない」と思っていられるだろう。

選べる部分への気づき

だが実際はそうではないはずだ。あなたはむしろその静かな環境の中で自分の呼吸や心臓の拍動や徐々に襲ってくる疲労や眠気、何かしなければいけないのではないかという気がかりなことや人間関係、風や雨、落日、明日のこと、老後のことを考えてしまうのだ。それらは今起こっていることで、「今」は二度とやってこない。その「今」起こってくる想念の中で何にこだわり何にこだわらないかはあなたの自由になる。確かにそこで同じことにこだわり続ければ、視野が狭くなり「一生このままなんだ」と思いたくなるかもしれない。それでも、そこでレールを切り替える小さなチャンスがあるはずなのだ。

(1,379字、2023.10.21)


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