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人生の内側から人生の外側をつくる inside out on life

我々は何かを評価し、比較し、複数のものの中にそれを位置づけるとき、それの「外」に立とうとする。言い換えれば、当事者たちでなく第三者・傍観者、事業家ではなく監査人 audit に成ろうとする。なぜならばそうしないと「客観性」を担保できないからである。

人生を評価することについて二つの極端な見方ができる。

一つは「人生の評価は外在的評価でしかあり得ない」という主張である。なぜならば、どのような人生も外部から観察不可能な要素を一切持たないからである。「心」と呼ばれるものや一人称の人生についても単にそのような機能として観測されてはじめて評価の対象になり得るが、観測や対象化が必要であるということは、すなわち外在的でなければ評価不能であることを意味するからだ。

もう一つは、「人生の評価は内在的にしかなし得ない」である。なぜならば、第一に、人生の全体というのはそれを生きた当人(当事者)にしかわからない部分があるのではないかという疑いがあり、第二に誰が評価者を引き受けるとしても、評価者自身も固有の人生を持たざるを得ない、つまり評価者自身も人生の内側におりバイアスを受けて内在的評価をせざるを得ないからである。

このように、人生の評価は外在的にしか成し得ないとすれば、それは認識論的なバイアスを抱える一方、内在的にしか成し得ないとすれば評価不能なものを抱え込むことになる。すると、バイアスや局所的であったとしても外在的評価をするしかないし、現に我々はそうして日々をしのいでいる。

このような不完全な外在性は内在性と超越性とに挟み撃ちにされている。内在的で質的で観測不能な対象というのは語義矛盾 oxymoron であり、学術的には排除すべきであろう。しかし、それを排除すると、外在的な諸規定(生育歴、身長体重、年齢、年収、人間関係など)はまったく無意味な記述になってしまう。なるほど、身長を計ることはできて、AさんとBさんの身長に大小関係を定めることはできるのだが、それが誇らしいことなのか劣等感を感じるようなことなのか、当人の人生の意味に寄与するのかしないのかがまったくわからなくなってしまう。すなわち、外在的な属性しかない存在者は機械であり計算機である。

また、我々人類が実際にも計算機であるに過ぎないということがいずれ実証されるかもしれないが、そうだとしても、外在性が不完全であるというときに何か仮想的な完全性の指標を参照して比較しているはずである。それはやはり、北極星のように現地に到達することはできないしする必要も無いが参照点として存在する理念ではないか。言い換えれば、実際には観測できないような内在的な点または超越的な点を我々は持つかまたは持つフリあるいは共有するフリができて、そのために諸々の評価や信用のやり取りをおこなえるようなインフラが無くてはならないのではないかと思えるのだ。

(1,190字、2023.11.29)

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