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今、なにしてる?

いろんな生き方があるが、私が人から聞いてみたいのは、まず「今なにしてる?」ということである。これは私がたずねられると困ってしまう質問でもある。

なぜそれが聞いてみたいかというと、やはりその人が何をしているかでその人の今の方向性や自分自身が持てる力を何に使っているのか、世界に対してどのような態度をとっているのか? がみえてくるものではないかと思うからである。なお、この質問は相手の職業をたずねるときにも使われるが、相手の生業なんか知ったって相手の何を知れるものでもない。いきなり知れるかどうかはともかく、せっかく話をするなら深いところをいずれは知りたいものだ。深いところとは何だと言ってもこれまた難しい。おおげさに言えばフランクルの「態度価値」のような、その人が何もかも剥奪されたとしてもなおどんな態度で自分自身の生に臨みたいか臨みたくないのかを私としては垣間見たいのである。

こう抽象的に言っても、雲をつかむような話ではあるので、ひとつ有名な例を出せば、梶井基次郎の「檸檬」のような話をききたいのである。すなわち、「今日かい? 今日ったって俺は何もしてないが、ひとつ本屋に爆弾をおいてやったぜ」というような話がききたいのである。

ところで、私は最近、外気を吸うために少しだけ散歩をすることがある。散歩をしようと思って散歩をするなんて、若い頃はまったく思わなかったが、実際にやってみるといつもの街の様子が変わらぬところも変わるところも細かくみえてくるものだ。その中で公園の脇に置いてある地図の掲示板があった。私は掲示物や時計は何の用もなくても注目してしまうクセがある。元々迷いやすかったり遅刻が気になるからだろう。そうやって用もなく眺める掲示物のなかには落書きがずっとしてあるものもある。まあ落書きも都市のの都市らしさを反映していると言えなくもないだろうが、それにしても地図のような実用性があって、しかも製作や設置にそれなりに費用がかけられているものに落書きしてあるというのは気分がいいものではない。それに、この地図の脇にある花壇は実によく手入れされていて美しいのである。つまり、花は愛されたり予算をつけられるが、この地図カンバンさんは愛されないまま、落書きで汚れた顔のままずっと放っておかれているのである。私はかなしい気持ちになる。路地裏で気づかれずに見捨てられるかなしさもあるが、こちらはむしろ誰からもみえるところにあって誰からも気にされないというかなしさである。

しかし、そこを通るたびに「かなしい」と一人で心ひそかに思っていても仕方がない。また、誰かに訴えるほどのことでもないだろう。おそらく私だけが気にしているのだ。だから私は落書きを消した。

落書きされた掲示板
落書きを消した。屋外なので当然だが落書きだけでなく黒ずみもかなりあった。看板の下のへりの黒ずみがなくなっているのにも気づいてほしい。

(1,197字、2024.06.12)

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