見出し画像

君の名を呼ぶ:あるいは束と入れ物

先日、西新宿で哲学サークル(=哲学道場)の例会があった。

そこで私は固有名詞というものの特殊性を強調したつもりだったが、そこで生じた質疑のひとつとしては「なぜ固有名詞にこだわる必要があるのか? 個体を指し示すのなら、記述の束によって指せば十分ではないか?」というものがあった。なお、「記述」とは主語に対してその性質を記す述語のことである。例えば「ソクラテスは白い」の「~は白い」の部分だ。

その場においては、「我々一人一人が記述の束以上のものではないことや、我々の愛するたった一人のひとが単なる性質の束でしかないなら、我々はそれに実存的に絶えられないし、マッチングアプリなどでランキングされて分析されたものがすべてだということにもなりかねない」と、言わば情緒と直観に訴えかける素朴かつ弱い反論しかできなかった。もし正々堂々と反論するのであれば、「記述の束以上の何かが存在する!」と主張するこちら側に存在証明の責任があるだろう。

確かに、なんでも記述に還元して開き直ろうとする記述主義者を念頭におくのであれば、記述の束には還元できないXがあると主張した途端に、「それではソクラテスのような個体はX(あるいはXする)という記述を持つのですね」と言われてしまい、反論にはなるまいと思う。

もう少し搦(から)め手で考えてみると、例えば人名のような固有名詞が実は一定の記述の束の省略形であるとして、それでAさんと呼ばれる人と、別人であるBさんとをどう呼び分ければよいのか? という疑問がある。言い換えると、仮に我々が一人一人記述の束だとしても、それを束ねているXは何なのか? ということである。私としては当然、我々が多くの記述を持つ存在であることを認めるが、それらの記述をひとつの個体、他の個体と識別可能にしているのは固有名詞以外に存在しないのではないか? 少なくともそういう存在があるのではないか? と考えたいのである。

とはいえ、これも記述主義者にとってははかない言い返しのひとつに過ぎないであろう。というのも、こちらが「カエサルをカエサルたらしめているのはその名前だ」と言ってみたところで、記述主義者は「それは或る記述の束を持った個体に〝カエサルと名付けられている〟という記述を付け加えているに過ぎない。名前の有無は特権的な記述ではない」と一蹴されるに過ぎないからだ。

果たして我々は諸々の記述、諸々の特徴の〝入れ物〟に過ぎないのだろうか? たまたま自分という空虚な器に良い特徴や記述が入っていたらラッキー! ということでこの人生を送っているのだろうか? まだどこか、納得できないものが残っている。

(1,091字、2023.10.18)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?