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「何もなかった日」の日記

日記を書くのはニガテです。なぜならば、書こうとするときに、その日に「何も起こってない」と感じることが多いからです。例えば、ずっと眠っていたとか、同じゲームをずっとやっていたけれど進展がなかったとか、散歩をしたけれど何も見つけられなかったとか、そういう日があって、それの二度目三度目となると「何も起こってない」と感じがちなのです。したがって、私は日記をそういう日も含めて継続して書くというのはニガテなのです。

日記を書くとメリットがあると説く本や日記を書いている人は、「何もなかった日」には例えば「何もなかった」「いつも通りだった」と書けばいいといいます。なぜそう助言するのかといえば、それはそもそも或る程度日記を書くことが軌道に載っている中で、たまに凡庸な日が挟まれるから……ではないかなと推測しています。

確かに、習慣を始めるためにはちっちゃな着手行動(ベイビーステップと呼ばれます)を繰り返すところから始めた方がいいと言われています。例えば、自炊を習慣化したいなら、いきなり特定の料理を毎日作ろうとするのではなく、まずは鍋を毎日コンロに載せて、それから降ろすだけという行動継続から始める、というものです。毎日鍋をコンロに載せているうちに物足りなくなり、鍋で何か調理してから降ろすという行動に派生する可能性を狙っているわけです。それまでは文字通り鍋をコンロに載せるだけという一見無意味でしかない行動を続けていてもOKというわけです。それでうまくいくケースも実際ありますし、トライしないよりは遥かに良いです。ただ、毎日鍋コンロを反復しているうちにそれに飽きてしまってそれすらやらなくなるパターンもあるでしょう。私にとって日記に「今日は何もなかった」と記す行為も、それと同じような着手行動で、それもうまくいかない方の行動でした。

なぜ自分は「何もなかったと記入する」だけの日記も続かないのか、というと、それはおそらくその日にその日のことを考えていることが少ないからだろうと思っています。言い換えれば、今日を目覚めて過ごしていても、過去の思い出のことをずっと考えていたり、将来の予定のことをずっと考えていたり、フィクションやゲームや学問のこと、雑学、連想、空想に耽(ふけ)っていたりして、さてそう言えば日記を書く時刻になったぞと思っても、今日は「何もしなかった」「いつも通り、仕事をしただけだ」と思ってしまうのです。

なぜ思い出や将来の予定について書かないのかと言えば、それは何度も考えていて自分自身で飽きているからでもあり、個人情報が含まれていて恥ずかしいからでもあります。また、専門的なことや空想・連想についてなぜ書かないのかと言えば、それは書くこともあるのですが、たいていは断片的でまとまりを書くために、Xなどの短文投稿サイトにポストして済ませてしまうことが多いからです。

ちなみに今日はアシュワガンダというサプリを飲んで眠ってばかりいた他は、「ブルックリン」というアイルランド移民の映画をみたぐらいしかやっておらず、また気分も落ち込みがちな一日でした。ここでも日記を書くことはありますが、原則としては一定のまとまった思想か、なるべく推論として連鎖させたセンテンスの塊(かたまり)を今後も投稿したいと考えています。

(1,353字、2024.03.10)

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