見出し画像

【小説】『春の庭』


文庫本

         はるっぽい

あらすじを引用

東京・世田谷の取り壊し間近のアパートに住む太郎は、住人の女と知り合う。彼女は隣に建つ「水色の家」に、異様な関心を示していた。街に積み重なる時間の中で、彼らが見つけたものとは―第151回芥川賞に輝く表題作に、「糸」「見えない」「出かける準備」の三篇を加え、作家の揺るぎない才能を示した小説集。


感想

春も近いだろうと読み出した、1月現在。雪が降っている。さむい。

「家」がテーマとしてあるのに、内側からの視点でなく、他人の家を眺める外側からの視点なのが面白い。
あと、家族としての「家」は脆いイメージがあるけれど、物質的な「家」は永く続く印象が(中では)あった。ただ、作中の家はすぐ空家になったり、取り壊されたりするものとして描かれていて、自分の中にない感覚。

          ●

全体的にほの暗い部屋は、木張りの床が湿っぽい。中央に低い机があって、その先に縁側がのびている。
二本の柱によって四角く切り取られた庭は明るくて、部屋とのコントラストが際立つ。庭は季節ごとに色合いを変えて、部屋に差し込む光もまた、伸び縮みする。その変化を数十秒で見る、早回しのイメージ……

          ●

これが僕の家のイメージなのだけど、やっぱり内側から外側へ向かう視点しかないし、家の外側が動く。
この視点の違いは、入れ替わりの激しい東京にあって、家(族)に重点を置かない人との違いなのかなと思う。僕は家に焦点当てがち。

「水色の家」に住んでいる家族以外はみんな単身者で、彼らの視点が「水色の家」に住む家族ではなく、家そのものに集まるのもやっぱり不気味で面白い。この作品は、人との繋がりの場としての「家」の要素がかなり薄くて、その影響からか物質としての「家」も容れ物になっている。都会人だ。

そう、容れ物としての家が描かれている印象。そこに誰が住むかで印象は変わるし、空き家になればすぐ分かるのが、この作品内の家。

ただ、(当然ながら)見る人によって家への印象も変わる。浴室一つをとっても、視点人物の一人である太郎と、「水色の家」に執着している西が見た場合では、前者が「軽い落胆」を感じるのと、後者が「軽い興奮状態」に陥ったりする違いがある。

住む人、見る人によって姿形を変える「家」を通じて、読者はズレを感じる。
そのズレは、人と人の間にある違い、言い換えれば個人の価値観が元にあるから、解消されるわけもない。

(唐突な大江だけど)大江健三郎が、何回も同じ舞台を描いて、ベン図の重なる部分を浮かび上がらせようとしていたのなら、『春の庭』では、他とは重ならない部分を明らかにして、その集合体の全体を表そうとしているような印象。
それは、個人ー家の関係であって、更に少しずつ広げれば東京という街に住む人々のあり方。

見ているものは違うけど、なんとなく上手くいくし、上手くいかなくても、時間は流れる。そんな、良い意味で軽視されている人間関係は、居心地が良いだろうな、とも思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?