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語りを受け止めるということ。
しあんと私はお互いにお互いの調子があまりよくないことを知っていたが、前回の記事の内容は初めて知った。
そうかぁ。そうだったのか…。
今日はショッキングなニュースをラジオでも聞いたが、しあんからも聞くことになるとは思わなかった。
どう受け止めればいいか、今ものすごく考えている。
私も1年ほど前からしばらくは、この世に存在していたくない、このまま自分自身が消えればいいのにと思っていた。
痛いのは嫌だったので、縄を検索してみたり、練炭募集のタグをたどってみたり、夜適度に人がいなくて、でも朝になったら見つけてもらえそうな森はどこだろうと思い浮かべたり。
それでも私が行為に及ぶことはなかった。
そこまでは希死念慮が強くなかった、悪く言えば勇気がなかったということなのかもしれないし、自分のつらさに正面から向き合っていなかったともいえるかもしれない。(私はひたすら動けず、思考停止して眠っていた)
こうやって自分の経験を引き合いに出して、つらかったね、大変だったね、と声をかけるのは簡単だ。
話してくれてありがとう、という言葉を表面上言うことも、それが慰めになると知っていれば簡単だ。
だけど、それが本当に「語りを受け止める」ということになるのだろうか。
自傷行為に及んだ時、しあんは何を感じていたのだろうか。
そのあと、そんなことをおくびにも出さずに私と接していてくれたことに、大きな無力感と、でもそういうことを人に話すのも体力がいるよね、という共感とが、心の天秤の両端の重りとなって、水平に揺れている。
そしてそれを語ることができるようになったということ、今生きてくれているということに大きな安堵を感じる。
自分の経験を語るということは、その時の自分の心の奥に沈み込んで、あるいはすっと抜け出して天井から俯瞰し、そこから自分を観察しながらその経験を追体験するということである。
そしてそれを文章化するということは、それを形にして、再度読み返せるようにするということである。
つまり、しあんが書いてくれたような内容は、本来であればとてもトラウマティックであり、避けて通りたいことではないかと思う。
それを書いてくれたということが、それくらい心が癒えてきたということなのか、私に付き合って無理にかさぶたをはがしてくれたということなのか、今かさぶたをはがすほどの必要に迫られていた、それほど誰かに理解されることを望んでいたということなのか、今の私にはわからない。
それでも私はしあんが書いてくれた内容を受け止めたいし、それを書いてくれたということを受け止めたい。
表面的にではなく心から、話してくれてありがとうと言いたい。
今度会うときは、思いっきりハグしたい。
そして、少し早いけど、誕生日おめでとう。
(緑青)
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