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【エッセイ】靴、箸、双子。。

2つで1足、2本で1膳。
靴や箸は2つが1セット。

双子も似ています。

2人で1人。
双子は1/2ずつが合わさってやっと1人として機能する。

僕が双子として人生を送ってきた24年間の内、大半はこの感覚でした。

産まれてからずっと、同い年で顔も声も嗜好も思考もほとんど同じ兄弟が一緒にいる。この感覚を双子じゃない人に伝えるのはとても難しいです。

友達と兄弟の間のような感じ。先に産まれた方が兄という不文律によれば僕が弟、もう1人は兄。でも、自分と弟の関係性とは少し違う。1番しっくり来ているのは「芸人さんのコンビ」の関係性。どこかに一緒に遊びに行ったりはほとんどしないし、一緒にいてもずっと話してるとかではないけど、仲は悪くないし、信頼はしてるみたいな。

双子で良かったことは沢山あります。
嗜好が近いので、面白いと思ったこと、良いと思った音楽、感動した映画などは大体共感を得られますし、兄に勧められたものは大体自分も良いと思う。だからお互いに色んな作品を紹介しあってました。今、何か観たり聞いたりしたものをSNSでよくあげるルーツはここにあると思います。


ここからが本題ですが、双子で困ったことがあります。
それは「2人で1セット」にされることです。

両親は「〜に比べて〜は」みたいに比べることは全くありませんでした。でもそれよりも一緒にされることの方が嫌だと思う機会は多かったです。僕だけでいても兄の存在ありきで話される。僕単体では存在できないような雰囲気。

学校でもそれは感じていました。
基本、双子は学校では同じクラスにされないらしいですが、人数の関係で1学年1クラスしかない場合は必然的に同じクラスです。小学生の頃は席を入れ替わっていつ先生が気づくか試したりして周りとは違う「双子」を楽しんでいました。

でも、中学生高校生と思春期・自意識過剰大爆発のお年頃がやってくると双子は一気にマイナスに転じます。

1人でいても兄のことを聞かれるし、体操着には苗字に加えて名前の頭文字が追加される。1人と1人で2人ではなく、1/2と1/2で1人のような感覚でした。だから別に自分じゃなくてもいい、自分か兄どっちかでいいみたいに思う時期もありました。

そしてもう一つ。自分の言動は友達づたいですぐに兄に伝わります。友達という家族とは別のコミュニティーに家族が存在していることは、僕にとってとても苦痛でした。

だから今の自分の行動は兄づたいで家族に伝わっても大丈夫だったか?本当はもっとこうしたいけど、こういう風に兄に思われたら嫌だな。という自分の中に兄がいて、自分の行動を自分で制限してました。生きづらかった。

国語の授業で「パノプティコン」が出てきた時、まさに双子はこれだ!と思った記憶があります。

パノプティコン:円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。(だから収容者は看守に見られてるかもしれないと自分の中の看守を存在させ、その看守により行動を律するようになるあれです。)

だから高校時代はなかなか自分を出せず、周りの目を気にして自分の殻に閉じこもっていたので友達もあまり出来ず、家に帰ってお笑いをひたすら観る毎日でした笑
(今となってはその時期があった今の僕があるので結果オーライ。と言い聞かせています。)

そしてやってくる大学生活。別々の大学です。

やっと1/2ではなく1として見てもらえる人生がやってきました。これはもう本当に本当に楽しかったです。双子として見られない。こんなに生きやすいのかと思いました。やっと1人の人間として存在できる。
初対面の人が多くなるときには双子(で男だけ5人兄弟)だというとしばらく会話が盛り上がるので、双子のいいところだけを受け取れる。最高でした。

そして社会人になり、兄と一緒に暮らしはじめました。すると今まではほとんど似た性格で、一挙手一投足ほとんど同じ行動をすると思っていた兄と自分の明確な違いが見えてきました。別の大学生活を過ごしたからなのか、離れて暮らしていたからなのか。

近くに存在していてもちゃんと1と1で2になれている気がしました。

もしかしたら今までは自分でも似ている部分ばかり見ていて、違う部分に目を向けていなかったのかもしれません。1/2だと自分で思い込んでいたのかも。

社会人3年目に差し掛かり、また別々に住み始めた今。
身体的にも精神的にも1:1になれた気がします。

将来産まれるあなたの子どもが双子だったり、双子の子どもたちと接する機会があったら、ぜひ僕のこのnoteを思い返して1人と1人として関わってあげてください。

物書きになりたいという夢を叶えます