綺麗なお水の流れるほとりで 朝ドラ「虎に翼」感想文(第8週)

国体(こくたい、旧字体:國體)

とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという

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「人には、その時代時代ごとの天命というものがあってね」
「また…君の次の世代が、きっと活躍を」

穂高先生がどんな立場に置かれてた人か想像したくてこの頃の学問の場について書かれた本を読んでいるけどさっぱり頭に入ってこない。筋や道理が通らない、気が狂ったのかとしか思えない屁理屈がさも当然のように法律となり、実際の生活に投下されていく。

「綺麗なお水に変な色を混ぜられたり、汚されたりしないように守らなきゃいけない」とかつて寅子は言ったけれど、それが出来なかった時、どうなるのか。

月曜日冒頭の案件は、酷い夫と離婚したいという女性の訴えだった。「女側からの離婚を成立させるのは至難の業」と、よね。夫と離婚できない、できても母親が親権を得ることはほぼない、そんなルールがある中で、両国満智のチートは鮮やかだ。

統制法違反
言論弾圧の弁護
ルールを守らない、という理由で告発される人たちが次々現れ、寅子や雲野法律事務所が忙殺される様子が描かれる。
しかし、ルールを守れない事例が多発するということはそのルール自体に問題がある可能性が高い訳で、そここそ問われなければならない、のに…1942年(昭和17年)の舞台では、もはや誰も手をだせなくなっているのだ。

「お腹の赤ん坊が、驚いてしまうよ」と穂高先生。
1881年(明治14年)生まれの直言さんの恩師なら、1942年(昭和17年)の時点で70歳近かっただろう。法曹の人間として守ってきた「正しさ」の源泉を土足で踏みにじられ、綺麗なお水に変な色を混ぜられて、学者としての尊厳をメチャクチャに毀損されても、それでももはや黙ってその様子を眺めるしかない老人が、次の世代に希望を見ようと寅子の「お腹の赤ん坊」にすがった。そんな様子だったのじゃないかと思うと…いたたまれない。

来るべき本土決戦に向けて、国民義勇隊が組織されることになった。六月十日(補記:昭和20年)に義勇兵役法案が貴衆両院を通過(公布は二十三日)して日本国民は全員が(男子は十五歳から六十歳まで。女子は十七歳から四十歳まで)義勇兵役に服し、本土決戦の際は武器を取ることになったのである。義勇兵は、本来自由意思による志願兵のはずだが、この法律によって、国民は全員義勇兵になることが義務付けられ、本土決戦に際しては、各地の義勇戦闘隊に組み込まれて、米軍相手に玉砕戦を戦うことになっていた。

『雄誥(をたけび)』(筆者は軍務局中堅将校)によると、一億玉砕の方向性は、陸軍省軍務局で、すでに昭和十八年段階で固まっていた。
「昭和十八年末における状況判断は次のやうであった。
1.今後の戦争の推移を忖度するに、特別の情勢変化がない限り、最終的には本土決戦を覚悟せねばならないであらう(略)…
5.戦争終結の場合は、国体護持を絶対条件とする。国体護持が全うされない限り徹底抗戦するものとし、皇運扶翼の為には一億玉砕も辞せざる覚悟を全国民に堅持させるやう国民総決起運動を起こすほか、各種施策をいまから準備しなければならない」義勇兵役法は、このような流れの中で生まれていたものなのである。それは一億玉砕の覚悟を国民に得させる、国民総決起運動の一環でもあった。

「天皇と東大」立花隆

「婦人弁護士の先頭に立って頑張ってくれよ」
「辞めていった仲間の為にも、世の女性たちのためにも、自分が先頭に立ち社会を変えていく」
「困っている依頼人のため誠心誠意働くのみ」
「子どもたちにとって、もっともっといい国になっていく」
大義。自己犠牲。その中で個人は名前を失い、本末は転倒していく。「国体の護持」という大義のため国民全員の命を懸けるというが、その国体とはなんなのか。国民が死に絶えた国に、守るべきものなど何もないというのに。

「寅ちゃんができるのは、寅ちゃんが好きに生きることです。また弁護士をしてもいい。別の仕事を始めてもいい。優未のいいお母さんでいてもいい。僕の大好きな、あの、何かに無我夢中になっている時の寅ちゃんの顔をして、何かを頑張ってくれること。いや、やっぱり頑張んなくてもいい。寅ちゃんが後悔せず、心から人生をやり切ってくれること。それが僕の望みです。」

出征前の最後のデート。多摩川の綺麗な水が流れるほとりで、優三さんは何度も何度も、寅子の名前を呼んだ。「寅ちゃんの好きに生きること」「寅ちゃんがやり切ること」そこには、誰かのためという大義は一切入らなかった。

日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

日本国憲法の公布は1946年(昭和21年)、施行は1947年(昭和22年)5月。優三さんの出征から2年後だ。血縁を失い、社会的な肩書を持てず、穂高先生にも名前を覚えてもらえなかった優三さん。いつもいつも一歩後ろに下がって、誰かを支え続けた人。彼が綺麗なお水のほとりで寅子に残していった「僕の望み」という名のルールは、まるで日本国憲法のようだった。

大好きな寅子に、一足先に新しいルールを置いていった彼が、どうか無事に、彼の大切な家族のもとに戻ってくることを願ってやまない。

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