雨だれをしみ込ませる 朝ドラ「虎に翼」感想文(第14週)

せい‐ぎ【正義】
〘 名詞 〙
① 正しい道理。正しいすじみち。人として行なうべき正しい道義。しょうぎ。
② 正しい意義。正しい釈義。しょうぎ。
③ プラトン哲学で、国家の各部分がそれぞれに割り当てられたふさわしい役割を果たすこと。アリストテレスでは、広義には合法的であること、狭義には公平であることをいう。

精選版 日本国語大辞典

「雨だれ石を穿つ」の重さ

穂高重親先生が亡くなった。重親の名前のとおり、寅子にとってはもう一人の親だった。昭和26年(1951)に74歳で亡くなられたのなら、明治10年(1877)生まれだ。その死を報じる新聞記事には、作りこまれた経歴が載っていた。法科大卒業ののちそのまま助教、留学、帰国後帝大教授。3回務めた法学部長。弁護士でも判事でもなく、研究・教育にその時間の大半を注いだ法曹人生だった。

「天皇と東大」(立花隆)を読んでから、穂高先生の経歴に帝大法学部長の肩書がないといいなあと思っていた。昭和に入ってから終戦までその地位にある人がどれほど大変なかじ取りを迫られただろうかは、想像に難くなかったから。昭和8年(1933)滝川事件、昭和10年(1935年)天皇機関説事件、昭和12年(1937)日中戦争、昭和13年(1938)二二六事件…先生の50代から70代は、本当に激動だったのだ。

「世の中そう簡単には変わらんよ。雨だれ石を穿つだよ佐田君。君の犠牲は決して無駄にはならない。」
寅子と衝突する最初のきっかけになったこの言葉があったのは昭和18年(1943)だ。同年10月、明治神宮大円競技場で出陣学徒の壮行会が開かれた。
学徒出陣。兵力不足を補うため、20歳(1944年10月以降は19歳)以上の大学生を在学途中で徴兵し出征させた史実だ。

まず驚くのは、学徒出陣が圧倒的に文科系に片寄っていた事実である。
昭和19年8月の時点で、在籍学生(学部生)8798名中3157名が徴兵猶予取消となって入営したが、その内訳を多い順に学部別に示すと次のとおりである(カッコ内は各学部別の入営者の割合)
法学部   1433名(66.8%)
経済学部    846名(70.91%)
文学部          648名(54.96%)
農学部          162名(25.71%)
工学部            32名(  2.49%)
第二工学部     17名(  1.34%)
理学部            12名(  2.64%)
医学部              7名(  1.07%)
(中略)戦場に追いやられた文科生を待っていた運命は過酷かつ悲惨なものだった。戦死者が多かっただけでなく、そのかなりの部分が、特攻隊員としての死だった。

「天皇と東大」立花隆

雨だれ石を穿つ、という言葉が持ちうる、様々な意味を考えてしまう。
一体、何度万歳をしただろう。どれほどの学生を戦場に送っただろう。どんな役目を負っていただろう。雨だれ石を穿つ。当時66歳、穂高先生とその世代の人間は、この事態を引き起こした、雨だれ達を落とすことを決めた社会において、責任能力のある成年男子たちだった。

「結局私は、大岩に落ちた雨だれの一滴に過ぎなかった」という言葉は、自分も”無能力者”のひとりという自嘲でもあった。「感謝はしますが許さない」涙を落とし喰ってかかった寅子の姿に、穂高先生は別の誰かを重ねたようにも見えたけど、どうだっただろう。

「これ以上嫌われたくない」― 最後に笑ってすっきりした顔でお別れが出来なかった、別の誰かとの決裂を想像する。そんなやり取りは、もしあったとしても歴史にも記録にも残らない。ただ穂高先生の脳裏にだけ残り、先生が亡くなった今はもう永遠に分からない。新聞記事によると、先生の教職としての退職は、昭和20年(1945)8月だった。

変わっていく正しさ

自由、民権、権利、社会。開国と同時に怒涛のように流れ込んできた様々な概念はどうやって私達に浸透したのだろう。汽車や印刷といった技術と異なり、こういった目に見えない形而上の概念が、理解され行きわたることの困難を考える。

まだ先生が50代だった明律大学女子部法科設立の頃、自由なる心証をもって「権利の濫用」について指摘し、着物を妻に返すよう判断した裁判傍聴回があった。「人間の権利は法で定められているが、それを濫用悪用することがあってはならない。新しい視点に立った見事な判決だった」と評した穂高先生に希望のまなざしを向ける寅子たちだったけど、その言葉には現代社会でいうところの人権の視点は薄く、”やさしさ”と”おもいやり”を前提とした考えにも思えたことを思い出す。

「私は古い人間だ。理想を口にしながら、現実では既存の考えから抜け出すことができなかった」
という穂高先生は、明治生まれの父だった。ご婦人や弱き者たちのために声を上げ、新しい概念を論理的には受け入れながらも、現実では”やさしさ”と”おもいやり”と、”大きなお世話”にあふれた父だった。

「今次の戦争で日本は敗れ、国の建て直しを迫られ、民法も改定されました。私達の現実の生活より進んだところのものを取り入れて規定していますから、これが国民になじむまで相当の工夫や努力と日時を要するでしょう。…私は、この民法が早く国民になじみ、新しく正しいものに変わっていくことを望みます」

星朋彦先生の序文は、この民法が「正しいものに変わっていく」と表現していたのがとても印象的だった。変わっていく正しさ。正しさとは何だろう。理想としての法があり、それが皆の当たり前として馴染んだ時に、初めて使える言葉なのかもしれない。だとしたら、なんと困難な道のりなんだろうかと思う。

尊属殺の最高裁判決における穂高先生の反対意見には「道徳は道徳、法は法である」とあった一方、新聞記事の端に映る神保先生談話には「尊属敬重は人類普遍の原理」とあった…

正しさとは何だろうと、また考えてしまう。20年後、尊属殺重罰規定は見直された。あの時の正義は、人類普遍の原理は、動いたのだ。

今ココで動く様々な法改正の議論を思う。私達は何を理想とし、何を正義とし、どうなじませていくのだろう。

「先生の教えは、とうに俺達にしみ込んでいる!」と皿を食いながら叫んだ桂場先生。「雨だれの一滴」は一撃で何かを砕くのではなく、じんわりと次の世代にしみ込んだ。ゆっくりゆっくり、時間をかけて、正しさも意識も変わっていく。


さても酒臭い息で寝ている母のそばにいる、次世代よ。寅ちゃんの次なる奮闘を待って、第15週…感想文…かけるかな…痛い…心が痛いよ…

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