雨だれは、きっと石を穿つだろう 朝ドラ「虎に翼」感想文(第17週)
苔むした、大きく古い岩のような規範
「中途半端に生き残ったばかりに」
もう2週間経つというのに、玉ちゃんの放ったこの言葉が頭から離れない。何度も何度も反芻してしまう。なんという辛い言葉だろう。
先週に引き続き「菊と刀」を読んでいる。読みながら、この時代に至極当たり前のものとして存在しただろう様々な溝を想像すると、玉ちゃんの置かれた状況に言葉が出ない。
応分の場(分相応)は、地方と都会だけではなく、障害を持つもの持たないもの、男女、人種、国籍、社会的身分、あらゆる角度から検証され、与えられる。境界を置き、「乗り越えるな」「わきまえろ」という。少しでもはみ出した(と認定されれば)社会的制裁が加えられる。『障害者の権利に関する条約』で謳われている、障害が障害としてあるのは、個人の責任ではなく「社会の責任」という解釈など微塵も出なかったころの話だ。
ところで『中途半端な生』の対岸には『真っ当な生』がある訳だけど、あなたは真っ当な生の人ですか?そう問われたらよっぽどの自信家じゃない限り、一瞬ぎっくりして慌てて自己の『真っ当たる理由』を探し始めるんじゃないだろうか。
税金を納めている。社会になんの迷惑もかけてない。…役に立つ。全く納得しないけど、この道徳模様の皮をかぶった心の境界線は、私たちの社会に、ひとりひとりの内側に確実に存在する。それはベネディクトが「菊と刀」を発表した80年近く前から…そのずっと以前から存在し、大きな岩のように、日本国憲法、民法、様々な法律の制定を経てなお深く、暗く、私達の社会を分断し続ける。
相模原の知的障害者施設で大量殺人事件が起こったのは、2016年(平成28年)7月26日未明のことだった。冒頭の『障害者の権利に関する条約』発行から2年後のことだ。それからさらに8年。
障害者、老人、子供、LGBTQ+、ホームレス…2024年のイマココのSNSでは、毎日誰かが自分の応分の場の正当性を担保するため、他人が持つ(てるように見える)場について「わきまえてない」「不当だ」と声をあげ、生きる意味について、権利についてジャッジメントをし続け、誰かを叩き続けている。
the law の前置詞として、玉ちゃんはunder ではなく、beforeで代替できるといった。毛布のように上から守ってくれるルールは、同時に向き合うルールでもある。お嬢様は涼子ちゃんになった。華族という「応分」にふさわしい振る舞いとしてのownershipから対等な友人に対するfriendshipへ。物語の中、ふたりが結ぶ友情は温かく、尊重と敬意と誠意にあふれていた。
でも、これは所詮雨だれの一粒に過ぎないのかもしれないとの思いがよぎる。「正直そのお友達が心配です」と言った稲さん。「キレイゴトだけでは解決しない」と思った寅子。なおも2人を、わたしたちを取り巻く、古い大きな岩々をみつめ、ため息をつく私。
いつか雨だれは石を穿つだろう
「淋しゅうございますよ」と言いながら亡くなった寿子と、「寂しいのです」と笑って手伝いを申し出る稲の抱える孤独は同じ種類のものだったようにも思う。さびしい。さびしい。
応分の場を守った旧い世代二人の孤独は、胸の中にとどまらず、さびしいという言葉になって次世代に伝えられた。思っていることは口に出した方が、いい。その方が、いい。
孤独を受け取った若い世代は、稲と涼子、玉を、従業員と雇用主という形で繋ぎ、新たな”拠り所”を編み出した。家族関係でも主従関係でもない繋がり方がある。その様子を見ている次世代はどういう方法をとるだろう。
星朋彦先生は、「この法律が国民になじむまで相当の工夫や努力を要するでしょう」と言った。一つの世代では完成しない大きなもの。「優未はすごいなあ」といって抱きしめたものはきっと未来だ。雨だれは、きっと石を穿つ。
それを祈る7月でもある。
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