秩序を超えていけ 朝ドラ「虎に翼」感想文(第19週)

だらし‐な・い

① 物事のけじめがつかないで、きちんとしていない。秩序がない。しまりがない。節度がない。ぐうたらだ。しだらない。だらしがない。

② 体力が弱すぎる。また、勝負を争う物事に弱すぎるさまである。だらしがない。

寅子と航一の恋模様が中心だった19週を眺めながら、若いころ好きだった向田邦子ドラマスペシャルを懐かしく思い出していた。
特に水曜日、突然訪れた航一を黙って部屋に入れ、黙々と同じ時間を共有するシーンは、外側から見ると「何も起こっていない」のに、それぞれの内側では嵐のような感情が巻き起こっている。

「嬉しいんです。来てくださったことも、何も言わずにそばにいてくださったことも。でも」
「僕も、無意識に弱っているあなたに付け込もうとしていたのかもしれません。…すみません。」

“でも” の後に省略されたたくさんの言葉。
“付け込もうとした”に込められたたくさんの感情。
やかんからしゅんしゅん上がる湯気のそばで、ふたりはただ、決定的な言葉を避け合う。思っていることを口に出さないほうのやりかた、言葉にしないことが却って饒舌さを生む感じが、向田邦子ドラマを想起させたんだと思う。

脱線しちゃうけど、向田邦子のエッセイで私が好きな「ごはん」というのがある。終戦記念日を挟む週なこともあって、東京大空襲の夜と翌朝を描いたこの随筆をSNSで別の方が引用されていて、懐かしくなって文庫を読み直した。

歩行者天国というのが苦手である。
天下晴れて車道を歩けるというのに歩道を歩くのは依怙地な気がするし、かといって車道を歩くとどうにも落ち着きがよくない。

この気持ちは無礼講に似ている。…気持ちの底に冷えたものがある。これはお情けなのだ。一夜明ければ元の木阿弥。調子づくとしっぺ返しがありそうな、そんな気もチラチラしながら、どこかで加減しいしい羽目を外している。
あの開放感と居心地の悪さ、うしろめたさは、もうひとつ覚えがある。それは、畳の上を土足で歩いた時だった。
今から三十二年前の東京大空襲の夜である。

「ごはん」向田邦子(「父の詫び状」収録)

昔読んだ本を読み返す、という作業は面白い。新しく得た知識、経験のフィルターが、昔読んだ時とは全然違う景色を見せてくれる。
寅子のいう「きちんと心に引いた線」と、邦子さんの「うしろめたさ」が重なる。心に引いた線を踏み込めばしっぺ返しがありそうで、なかなか羽目を外せない。

そういえば向田邦子の描く人間ドラマは、制約を前提に、それでもはみ出してしまう人間を愛おしむ視線がある。夫婦。結婚。子どもの有無。不倫。浮気。甲斐性なし。男、女、父、母、「こうあるべきだ」という秩序 ー 私達の文化の根底を流れる、他人の目を意識した規範、応分の場 ー 寅子のいう「溝」が前提としてあって、そのうえでそこを(思わず)はみ出してしまうものを「をかし」とする。畳を土足で上がるときの高揚感、これは、そもそも、その規範がない文化からは出ないのだとふと思う。
そして向田邦子ドラマの人々は、一度ははみ出しながらも応分の場に戻っていくのだ。

今日の日本は、アメリカ人の拠り所ではなく、自前の拠り所を支えにして自尊心を取り戻さなければならないだろう。そして独自のやり方で自尊心に磨きをかけなければいけない。

「菊と刀」ベネディクト

しつこいんだけど、「菊と刀」でベネディクトが言った指摘が小骨のように刺さって抜けない。「平等主義」「個人の尊重」という、アメリカからもたらされたこの新しい規範を、私たちはどう”私たち流”に変えてきて、これから更にどうしようというんだろう。

向田邦子ドラマも好きな私。個人の尊重という概念に心から賛同し、思っていることは口に出した方が、いい!と思うのに、そうは言っても応分の場を守ることで安心を得てもしまうし、畳に土足は出来かねる。
その間で、右往左往してしまう。

「今、ドキドキする気持ちを大事にしたってバチは当たらないんじゃないですか。永遠の愛を誓う必要なんてないんですから。なりたい自分とかけ離れた、不真面目でだらしがない愛だとしても、僕は佐田さんと線からはみ出して。蓋を外して、溝を埋めたい」

私たちの求める最適なものとしての、だらしなさ。
応分の場を、秩序を、規範を「わかっていて」そこを敢えて意識的に越えようといった航一が、
「バチは当たらない」といったのがとても印象的だった。これは邦子さんのいう「しっぺ返し」は起こらない、と言っている。

だらしがない、というのは、善悪ではなく秩序を前提にした言葉だ。私達の生活に張り巡らされたそれを超えることは、けして悪ではない。だから罰が下されることなどない。見えないルールを、秩序を超えて、僕はあなたと一緒にいたい。

うん、航一さん。私もそれが、最適なものだと思う。でも一方でそれは、向田邦子の愛する、そして私も愛する、「うっかり踏み外してしまう人間のおかしみ」を…そして踏み外してしまう熱を抱えながら、それでも必死で応分の場を生きる痩せ我慢を…捨てていこうということなんだろうか。
「憲法が変わったんだすけ変われなんて言われてもぜんぶねえなったみてえでおっかねなってしまう、そんげ人間もいるでしょうで」…脳内に突然現れた太郎弁護士の言葉に、戸惑いながら黙って微かに頷く私。

こうやって様々な考えを巡らせていると、もし私達の文化から溝を…秩序を埋めてしまうならば、これからの私達には他人の目を意識した規範、応分の場ではなくて、もっと大きな規範を持たねばならないのかもしれないとも思う。
人ではなく、超越した存在。はるさんのいう、お天道様がみている、なのかもしれないとも思う。


そういえば、応分の場と秩序が支配する田舎町に生まれ育ち、善悪の根幹にかかわる疑問を口にし、微笑んでいなくなった少女がいた。

「でもなぜそれが悪いことに定義されるのか、よく分からない」

秩序。慣行。規範。善悪。
私達の社会を、弱肉強食のルールが支配するけものではなく、人間社会たらしめる根本原理、人間相互の関係を支配するものはなんなのか。赤い腕飾りの少女は大学に進み、どんな人間と出会い、経験を重ね、どんな結論を出しているのだろう。

いま少し、美佐江さんに会いたい自分がいる。

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