記憶と記録 朝ドラ「虎に翼」感想文(第23週)
「意義のある裁判にするぞ」
これまで重低音で物語の底を流れていた「人権」「尊厳」「尊重」「承認」というキーワードが、滝のように金曜日の判決理由に流れ込み、結実していく。
そんな第23週。この週のメインテーマだった原爆裁判について知りたくて検索したサイトで、裁判所が判決以外の原爆裁判の記録を廃棄していた事実を知った。
記録
「雲野先生に頼まれてね。この裁判を記録してほしい、できれば世に知らしめてほしいってね…」雲野先生が竹中記者に依頼したのは「記録すること」だった。世に知らしめてほしい、というのは、実は次点の願いだったのが印象的だ。
ところで先日、Eテレで「無差別爆撃を問う 〜弁護士たちのBC級横浜裁判〜」というのをやっていて、アメリカ公文書館の描写が出てきた。80年近く前の記録は分類の上丁寧に保管され、外国メディアにも(自国の歴史としては旗色が悪い情報であっても)公開される。なんというか…この国に思うことはそりゃあ色々あるけれど、記録に対しての徹底さ加減は、ちょっと凄いなと感心している。
一方、我が国の裁判所。世界的にも意義をもつ原爆裁判にも関わらず、判決以外の記録は、公的には廃棄されていた。(※)どのような議論が尽くされ、どんな質問があり、それに対しどんな応答があり、どんな経過を経て判決に至ったのか。その途中経過や記録が廃棄されることは、のちの世の検証を困難にする。
雲野先生による竹中記者への依頼は、この国のそんな実情を踏まえてのものだったのだろうか。原爆被害者の苦しみがそう数年で簡単に終わることはないことを良く知っていたはずの先生だ。長期化する裁判。積み上がるログ。そういえば、戦前から弁護士として活動していた先生は、この国がやらかした数々の理不尽と渡り合ってきた猛者だった。先生は、戦前ご自身が散々闘ってきた事件や裁判の記録が、どうなっていたかご存じだったのかもしれない。
(※)裁判所には残らなかったが、幸い担当した弁護士によって私的に保管されていたという。
記憶
「振り返る人の顔つきは違ったけどね」と自嘲する、原爆被害者の吉田ミキさん。「情けない。ごめんなさい。ごめんなさい。」うつろな目で謝り続ける、認知症を患う百合さん。ただ人並みに扱われて穏やかに暮らしていたころの記憶が、彼女たちを苦しめる。
「触らないで」大好きな祖母に忘れられてしまった優未。
「のどかさんはいいんです。自慢の孫だわ。」記憶が失われる中なお、残り続ける期待が重いのどか。百合さんに対するそれぞれの記憶が、彼女たちを苦しめる。
「私の家では、誰も戦争の話をしません。」
中学生の言葉がよみがえる。辛い記憶を人は語りたがらない。「そうだよな、なるべくみんな、蓋をしておきたい、か。」と稲垣。慮って塞がれた蓋の下で記憶は砂のようにこぼれおち、記憶を抱えたまま人は亡くなり、懺悔も後悔も口に出せない思いも、すべてなかったことになる。
「そろそろあの戦争を振り返ろうや」と竹中さん。しかし登戸火工の記録はドラム缶で燃やされた。覚えているはずの直言さんは「あと少しだけ」の後悔を語らぬまま世を去った。振り返ろうにも記録がなければ、数々の事実はこうやって灰燼になっていく。
「でも私、伝えたいの。聞いてほしいのよ。こんなに苦しくて辛いって。」悲鳴のような吉田さんの言葉を「その策は考えます」と言った山田よね。思いは竹中が記録し、手紙は法廷で読み上げられた。その記憶が、記録に変わった瞬間だった。
記録 ― のちのちまで残す必要のある事柄を書きしるしたり、映像や録音で残したりすること。また、その書きしるしたり、録音・録画したりしたもの。
個人が背負う辛い記憶と、未来へつなぐものとしての記録と。
記憶は消えていくものだけれど、記録は残り続ける。辛い記憶のそのあとに、事態を俯瞰するための大きな武器。それがなければ後世の人間は誰も「なぜ」「どうして」を論理的に検証できないまま、同じ轍を踏んでしまう。
例え今開示できなくとも、記録を残すのだ。燃やすな。捨てるな。水に流すな。
公文書管理法が成立したのは2009年。そのあとも、廃棄された文書の話は令和の新聞に載り続けている。
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