枝折り(これはもしかしてタイトルにはルビふれない感じですか?)


 早起きは三文の徳というのを改めて実感した2022年秋。

 先月末に友人2人と私とでグランピングに行きました際に「標高が高いから日の出見ようぜ」となりました。見事に雲が被りモコモコしだしたので、友人Aはすぐに見切りをつけベッドにもぐりに帰りました。私はもうちょい粘ろうと決めてブランケットにくるまりながらじっと東を見つめていましたが3分も持たずベッドに戻りました。友人B?彼女は日の出なんてそっちのけで2時間くらいシャワーに行ってた。みんなでテントを後にする頃には太陽が燦々としていました。あの日食べたファミチキとシャケおにぎりの味は忘れないだろうな。

 友人Bが朝からバイトだったので朝ごはんも食べずに8時にグランピング地を出て、スタッフさんに最寄りの駅まで送ってもらう途中、通学中の学生をちらほら見た。今の小学生ってスマホいじりながら通学するのな。下り坂を自転車で行く女子生徒に俺はみずみずしさを感じずにはいられなかった。湿度の高い朝の新鮮な空気を吸いながら、有線イヤホンで音楽を聴く姿は絵になるなぁと思った。俺にもそんな時代があったのだろうか、誰かに眩しいな思われる時代があったのだろうかと、行きよりも随分静かな車内でうとうとしながら考えた。

 家に帰った後、「よーし今日は活動的な日にしよう!」っていきまいたけど多分速攻寝た。

 早起きをしただけかもしれないが、標高が高めなところで息を吸って思い出した中学生時代の朝練に行くときみたいな空気はよかった。うーーん。ノスタルジー。

 

 読書を久しくしてなかった。こんなふうに綴るとさも”以前はめっちゃ読んでました”感が出るけど、本当に読んでなかった。今不意に本棚を見たけど本たちが埃かぶってます。ごめんね。そんな俺が今読書を楽しいと思ってる。アクティブな楽しいという気持ちがあるというより、自分の欲求の多くを読書が占めるようになった、気がする。以前は読書という行為に価値があると思っていたカッコつけでしたが、今は純粋に本と向き合えている、、、といいな〜。新学期になって時間割をしっかり把握できてなくって暇つぶしに行った学校の図書館でなんとなく選んだ新書が面白かった。私が選んだ新書はおすすめコーナーみたいなブースにあったもので、本それぞれに〇〇教授のおすすめ!みたいなのが貼られている。 20歳にしてちゃんと読んだ本から「おもしろーい」って思ったことはいっぱいあるが、特にへえと感じたのは、日本人にはアニミズムが染み付いているということである。日本にはものは使い続けると魂や神様が宿る、付喪神などの文化が確かにある。この精神が根底にあるのが「擬人化」だと著者は述べていた。「もの」に魂を与える行為を早くからサブカルチャーに映していたのが手塚治虫氏らしい。 なるほど面白いと思えたということです、つまりは。
 あと読書はスマホに向く時間を減らしてくれるから嬉しい。何にもやることない→スマホ見るか、が少なくなった。常に本を持ち歩くようになった。 栞が欲しい。栞の代わりに図書館で借りた時に発行されるレシートを使っている。ちょっと寂しい。


 自分は人よりも思い出とかを忘れるのが早いかもしれない。楽しいことも忘れがちだし、ましてや嫌なことを記憶から消すなんて器用なことはできない。嫌なことは頭に残ってしまいがちだと思う。でもきっとそれも時間が経てば忘れているのだろう。 人間なのだから忘れる行為のそのものは皆等しくあるだろう。 なんで覚えてないんだろう?と考えることは無駄かもしれないけど考えてみると、私は大雑把に思い出を分けているようだ。「嫌なこと」と「良いこと」 イベントのタイトルをその二つに二分して頭に入れているのだろう。そして詳細を重んじていない。センターの点数は「嫌なこと」。ソフトボールをしたことは「良いこと」。そんな程度な気がする。そこに含まれていただろう詳細はどこかにいった。 ちょっとは戻ってきてほしい気がないわけではない。

 
 

 就職のことは書き始めると身体中に蕁麻疹が出るので書かない。



腹へった!!!!



 


 

 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?