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SS 河童だよ 【#海の日を】シロクマ文芸部参加作品(1900文字位)あとがき付

 海の日をはじめました、冷やし中華をはじめたみたいに張り紙がしてある。さよちゃんは父親と二人暮らしで母親を亡くしている。父親も具合が悪いので一人で働いていた。

「海の日?」
「うん、海の日をはじめてみました」

 お店は壁が無い建物で東屋あずまやだ。張り紙は柱に習字で使う紙に墨で書かれて貼ってある。

「わかったけどわからん」
「メニューです」

 また和紙がカウンターにあって『塩胡瓜五拾円ごじゅうえん』と書かれていた。

「じゃあこれで」
「はい」

 ドンっとどんぶりが置かれると、塩もみしたキュウリだ。手でとってパキンと半分にして、シャリシャリ食べる。しょっぱい。

「キュウリおいしいよ」
「とれたてです」

 おかっぱ頭のさよちゃんは無表情に河童見ている。他人から見たらシュールだろうなと思う。もっとも毎日キュウリをただでもらってるから、さよちゃんにお金を払うのは店によった時だけだ。

「じゃあ、お代は置いとくよ」
「ありがとうございました」

 無表情のまま、ぴょこんと頭を下げた。この店はたまに旅人が休むくらいで、大体は過疎ってる、こんなんで生活できるのか心配だ。

 翌日になると張り紙が変わってた。

「ウニの日をはじめました」

(ウニ? 山の中だけど……)

 またカウンターに座ると『ウニ丼五拾円ごじゅうえん』と書かれている。

「じゃあこれで」
「はい」

 ドンっとどんぶりが置かれるとご飯の上にイガグリが置いてある。栗はご飯の方に入っていた。

「普通に栗ご飯でいいんじゃね?」
「ウニ丼です」

 無表情のさよちゃんが、なんかかわいい。


あとがき

 海の日を……ギブアップした。実は話を三種類作ったのですが続かないのです。一本目は中国の話で、海を見て絶句を吟じる青年の話です。絶句は中国の詩の一種で五文字を使って詩として完成させる感じです。青年は海岸で女性を助けて、蓬莱の国(日本)へ渡る話なんですが、書いていてめっちゃ長くなったのでやめました。

 次はSFです、天王星クラスの惑星に海がある世界で奇妙なロボットと冒険をする話でしたが設定を書いている最中に、これもまためっちゃ長くなったので止めました。そして最後は、シュール系の海を探している少女が途中で二本足で立っている鯛とかウニと会話するのですが、自分で書いていてもまるっきりわからない話になったのでやめました。

 海の日を……まったく話がつくれないのです。なんて恐ろしいお題なのでしょうか?確かに、海の日を家族と旅行して懐かしむ話とか、海の日をデートで楽しく過ごしたけど、別れてまたくっつく話とか作れそうなんですが、ぼんやりとした話になりそうなので怖いのです。

 何が怖いのか? それは奇妙なオチを作れない怖さみたいなものでしょうか? いわゆる普通の話が怖いのです。普通、確かに普通の話を作って何が悪いみたいな事かもしれませんが、普通を書く人が一杯いるなかで私ごときが普通を書いたところで普通にしかならんわけで普通でいいのか? もっと頑張れよみたいな変な意識があります。

 でも大半の人は普通を読みたいんだなと自覚もしています。

 普通はきっと共感と関係しているのでしょう。世界線と言って良いと思います。普通の世界線が日常生活にある中で、こんな事があったよ=共感、こんな楽しことがあったよ=共感、みたいな積み上げで成り立つ小説です。

 むずい。

 それは多分体験に対して共感しないから作れないのでは? と思ってます。体験に没入しない感じでしょうか? 常にどこかで体験の意味を考えてしまう。楽しくても悲しくても、その体験は感じるべき事なのか? それは共感できるものなのか? 楽しいという感情は、その個人の感性の問題であって、共感できるものなのか?

 わからんです。

 海の日を……他の企画枠でも作れないお題がありました。いきなり詰んだ感じで発想を広げられない。いや広げてもいいんだけど、おぞましい話になってしまうので躊躇しました。今回のお題は、まったくもってわからない。

 海の日を……もう少し考えると出そうなんですが長くなる。短くできない。海の日になんら興味が無いのかもしれません。これがスパゲッティの日とか、たたみいわしの日なら作れたかもしれません。でも海の日は無理です。カンベンしてください。海の日になにも思い出が無いからかもしれない、というか印象がそもそもない。

 そして河童でなんとか作れました……意味わからん話だ。

#海の日を
#河童
#小説
#シロクマ文芸部
#ショートショート


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