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文体。それはあなたの人生を変えるほどのもの。

文体は、文章の顔です。その顔つきで、印象がまったく変わってしまいます。文体の選択を間違えると、内容によからぬ影響を与えます。

就活生に「ESを書くときに、〜である、がいいですか。〜です、がいいですか」とよく聞かれます。伝えたい気持ちが強いほど、思いを込めようと願うほど、文体に注意がいくのだと思います。

文体には、さまざまな種類があります。が、僕のように、コピーライターを長くやっている人間は、あまり自分の文体を持っていません。というのも、女性ターゲットのファッション広告と男性ターゲットの4WDの広告では、文体を変化させて書くからです。かえって、自分本位に書くのが苦手な人が多いようにも思います。このnoteでも、僕の文体は、投稿ごとに揺れ動いている気がします。

僕が文体に強烈に殴られたのは高校生のときでした。国語の教科書に載っていた、ある小説の書き出しの文章でした。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

知っている方も多いと思います。中島敦の「山月記」の冒頭部です。国語の先生のS氏は「名文は読むものである」と僕らにのたまい、促されて、みんなで読みました。寺小屋チックだったかもしれませんね。しかし、このわけのわからない文章に僕は、心を動かされました。リズムがあったのです。跳ねるような音楽感がありました。

ちなみに、中島敦は昭和17年、33歳で病没しました。短命でした。しかも、作家として本格的に認められたのは、病没した年でしたから、不遇であったとも言えます。

横浜高等女学校の教師で国語や英語を担当していて、その学校跡が今でも横浜元町の汐汲坂にあります。中島文学のファンには聖地です。僕は横浜生まれの横浜育ちなので、この坂が好きで、たまに通ります(素敵な坂ですよ)。通ると、決まって頭に思い浮かぶのは、「隴西の李徴は博学才穎・・・・」の文章です。まるでお気に入りの歌のように、です。

漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。(「李陵」書き出し)

魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。(「弟子」書き出し)

二つほど中島敦の作品の冒頭を示しました。いずれも「漢文脈」と呼ばれる文体です。金属のように硬質で、格調高い音楽のようで、ドラマチックです。ファンファーレが鳴っているような感じ。中島敦は、この漢文脈をベースとし、彼ならではの深い叙情性を加えて、麗美な作品を多く書いています。

彼の優れた作品が当時認められなかったのは、不思議ですね。いつもそのことを僕は思います。時代の空気と土壌ゆえにウケたものは、その空気と土壌が移り変わると消えていき、逆に時代に左右されない本質を描いたものが発掘されていく。宮沢賢治、石川啄木、カフカなどなど。きっとそういうことなのでしょう。

今、中島敦には多くのファンがいます。回顧展にも驚くほどの人が集まります。そして、そのファンの中には、彼の文体に惹かれた方も多数いるのだと思います。

文体。それは好き嫌いを分ける、大事なものです。僕もそろそろ自分の文体を持つべきだとも感じます。いろいろな迷いもあり、なかなか難しいのですが。

文体は、自分の一生を左右するほどのものだと僕は最近、思っています。


(おわり)

*写真は、横浜みなとみらいの夕景。中島敦が横浜に住んでいた頃、赤レンガ倉庫は現役として物流の要であった。この一帯を散策したかもしれない。

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