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『たまごの祈り』連載まとめマガジン

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記事一覧

『たまごの祈り』⑪

 大学に着くと、並木道沿いのベンチに柳が座っていた。もうすっかり木の葉は落ちて、踏みしめる地面はぱりぱりと乾いた音を立てた。大学で彼の姿を見るのは珍しいなと思って、ベンチのほうに近づいていくと、柳がこちらに気づいて控えめに手を振った。寒そうに背中を丸めながら手を振る柳が、ちいさな優しい動物みたいだったので、私はちょっと笑ってしまった。柳は、隣に座りなよ、というふうに、ベンチのあいている席を左手でぽ

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『たまごの祈り』㊿ 完結

 青い植木鉢には、とくに動かした覚えもないのに、細かいヒビが入っていた。植木鉢の中身は空っぽのままで、洗って干したブルーのシーツがゆらゆらと風に沿うように揺れていた。よく晴れた、風の強い日だった。揺れたシーツが一瞬舞い上がって、きれいな飛行機雲がひとつ引かれただけの真っ青な空が見えた。
 ベランダを出てキッチンに向かうと、柳がバイトから帰ってきていた。ノンアルコールの梅酒を冷蔵庫から取り出して、柳

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『たまごの祈り』㊾

 ほどなくして、由香里さんがやってきて、私はなにもやましいことはしていないのになんだかどきっとしてしまった。由香里さんが来たのが透子と話をしているときじゃなくてよかったと思った。
「ねえ、直也まだ来てない?」
「まだ見てないですね」
「そっか、じゃあちょっと外で待ってみる、今村の顔見たら逃げ出すかもしれないし、あいつ。展示は直也と話してからゆっくり見ることにするわ」
 由香里さんがそう言って来た方

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『たまごの祈り』㊽

 本当に、自分の作ったものを人前に並べることになるとは思わなかった。
 目に入るのは、天井に向かって伸びていく様々な形の手だった。誰かのものがモデルになった手たちはそれぞれに、パステルのブルーだったり、鮮やかなグリーンだったりして、何かを掴むような、慈しむような、それぞれに優しいかたちをしていた。そしてその手の中に、私の作ったたまごは、あたかも以前からそこにあったように、自然に、横たわったりそっと

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『たまごの祈り』㊼

 直也くんが見つかったらしいと柳から電話が入ったのは、アスファルトの熱気から逃げ出すように、木陰のベンチで休んでいた午後のことだった。買い物帰りのスーパーの白いビニールには水滴が張り付いていてベンチの表面を濡らした。辺りからはじわじわと染み出すような蝉の声が響いていた。私は五百ミリリットルのペットボトルを手に取り、レモンティーをごくごくと流し込んでいたところだった。ボトルの表面に浮かぶ水滴をさわる

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『たまごの祈り』㊻

「ねえ、直也くん、まだ見つからないのかな、由香里さんから何かきいてない?」
 私はなにか話さなくてはと思って、咄嗟にそう言った。柳はとても直也くんのことを心配していた。直也くんはもう三本のライブをキャンセルしていて、周りの人間に何も連絡がないということだった。
「さあ、まだ見つかってないんじゃないかな。ユカちゃんも心配してた。どこ行ったんだろうね」
 今村くんは大きなため息をついて、信じらんない、

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『たまごの祈り』㊺

「柳さんの手を見せてもらいに来たんだ」
 今村くんがそう言って突然大学に現れた日、私は学食のテラス席で透子とお茶を飲んでいた。その日は良く晴れていて、透子はフレンチトーストとコーラ、私は目玉焼きパンと紅茶を売店で買って、向かい合って座っていたところだった。
「柳なら授業であと一時間くらい戻らないと思いますけど」
「そうだったかー、じゃあここで一緒に待たせて貰っていい?」
 私たちが返事をする前に今

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『たまごの祈り』㊹

 その日、外では霧のような雨が降っていた。私はちいさな折りたたみ傘しか持っていなくて、柳は白いパーカーのフードを被って、並んで駅の改札を抜けた。
 駅前ではたくさんの若者が並んで、道行く人に声をかけ、チケットを売っていた。五百円でお笑いライブやってます、どうですか、駅からすぐの会場です、俺たちも出ます、十九時からライブどうですか、と、しきりに勧誘の声が飛び交った。
 彼らの日常の中にチケットを売っ

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『たまごの祈り』㊸

 私が半分ほど紅茶を飲んでテーブルにカップを置いたとき、今村くんが突然口を開いた。
「そうだ、俺さ、直也って奴にも会いたかったけど、伊田さんに会えるのもすげー楽しみにしてたんだ。伊田さんが作ったやつの写真、柳さんが撮ったやつ、あれこないだユカちゃんに見せて貰ったんだよね」
 これまで海外に行っていた今村という人が私に会いたかったなどというのに驚いたし、私が作ったものを知っているということにも驚いた

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『たまごの祈り』㊷

 洗濯物を干しているとき、ベランダで空っぽなままの鉢植えに気づいて、ああ、なんだか、私みたいだ、と考えながら、しばらくぼうっと外の景色を見た。午前中の光は家々をよく照らしていた。その日は影すらも眩しくて、私は細めた目の端で道路を横断する黒猫を認めると、あのこは圧倒的な光の中に溶けちゃうんじゃないか、などと考えた。
 今日は用事の帰りにホームセンターまで足をのばして、シソの苗を買っていこうと思った。

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『たまごの祈り』㊶

 空が紫になったころ、私は自宅の玄関を開け、柳がいつも履いているスニーカーがあるのに気づいてすこしだけためらってから、ゆっくりと扉を閉め、中に入った。玄関から差しこんだ夕方の薄い光が静かに消えていった。
 柳の部屋から、おかえり、という声が聞こえて、なんだかずっと家出をしていたのに自分から帰ってきたときのような、へんにばつのわるい気持ちになった。私は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、形だけ

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『たまごの祈り』㊵

 その日から私はますますたまごを作るようになった。生まれたたまごたちは艶やかにまるく、無造作に増え続け、私の部屋の一部を確実に浸食した。積み重なったそれらは混じりけのない純粋さで私を眺めているように、ただそこにあった。私は群となったたまごたちとときどき見つめ合って、不意に涙さえ浮かべさえした。私は授業すら休んでたまごを作っていないと、おちつかない身体になっていった。
 もうすっかりだめになってしま

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『たまごの祈り』㊴

 由香里ちゃんが帰ってきたらしい、と柳からきいたのは、とても春めいた風の吹くようになった、昼下がりの食堂でのことだった。私たちは、学食で向かいあってお昼ごはんを食べていた。
 鶏そぼろのどんぶりに入っている温泉卵をスプーンでわりまぜながら、私は訊ねた。
「直也くんの恋人だった、っていう人?由香里さんって」
「そうなんだ。留学先から帰ってきたみたい」
 私は、柳と、付き合っていた頃の直也くんと由香里

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『たまごの祈り』㊳

「伊田は?おれに話したいこととかないの?」
「うーん、話したいこと、何だろう」
「お鍋の日にちょっとだけ話した、夢の話、あれってきいても構わない?」
「ああ、あれはきっと、たいしたことはないの」
「でも、とても辛そうだったよ、ちょっと話しただけで」
「うん、そうだね、なんだろう、昔の夢を見てたの」
「昔というと、どのくらい昔?」
「私が幼稚園児くらいのときの、小さい頃の夢なの」
「うん」
「私、な

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