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第10話 初恋の相手 | 作者:水無月彩椰

──昨夜のことを思い出して、僕は朝から気落ちした。寝ればすべて忘れられると思っていたけれど、そんなに簡単にはいかないらしい。隣で寝ている白波を見て、彼女を起こさない程度には配慮した溜息を吐く。ブラインド越しに射し込んだ曙光が、床を仄かに照らしていた。それを僕は、ベッドの上から呆然と見つめている。

 
「……はぁ」

 首を少し傾けると、白波の寝顔が見えた。こんなに近くで彼女を見たことはないから、かなり緊張する。煙るように長い、整った睫毛だとか、綺麗な鼻筋だとか、血色のいい唇も、寝息を立てて上下している体躯も──そのどれもが、手を伸ばせば触れられる位置にあった。

 変な声が出てしまいそうになるのを飲み込みながら、僕は改めて、状況を整理しようと努める。ひとまず、まだ寝ている白波を起こさないように、ベッドから出た。衣擦れの音がするたびに、嫌なプレッシャーが僕の心臓を突き抜けていく。寝息が、少し遠く聞こえた。

 ──実のところ、彼女に甘やかされた記憶しか残っていない。あの後、僕は、ずっと白波に抱きしめられていたままだった。その心地良さに自分自身、甘えていた節がある。白波はほぼ確実に、僕の初恋の相手だ。明確な証拠はない。けれど、ほとんど確信している。そう思ったからこそ余計に、あの状況から抜け出したいとは思えなくて、ただ安穏と、なされるがままにしていた。

 結局そうしているうちに、白波の方が眠くなってしまったらしい。僕を抱いたまま眠ろうとする彼女をベッドに寝かせて、そのまま部屋を出ようとしたのに──白波はそのまま僕を引き留めて、僕の腕を抱き枕代わりにして、勝手に眠ってしまった。仕方なく一緒にいようと考えたあたり、『初恋の相手と白波は別人だ』という固い意志は、どうやら完全に消え失せてしまったらしい。

「……さて」

 デスクチェアに座り、さっそくパソコンを立ち上げる。実は一晩かけて、少しだけ考えていたことがあった。祖父と白波の関係性だ。僕の推測が正しければ、彼女は恐らく──。それを示唆するような話もいくつかあった。今になって思い出してみると、なんだか合点がいく。

 ……何年かは顔を合わせていたはずの、初恋の相手。彼女とはある年から、急に会えなくなった。祖父はそれを、『事情があって島から離れた』と幼い僕に説明したのだ。『いつか必ず戻ってくるだろう』とも。そして、祖父が白波に言っていた、『経過観察』の意味。主にこの二つが、どこか違和感を帯びて引っかかっている。

 そして何より昨夜の出来事で、僕は白波と昔に出会っていたことを、ほとんど確信できたのだ。あの表情と、声と、雰囲気で、思い出した。あの時もきっと、彼女に慰められていたはずだ。かつての花火大会の日に、僕は白波を誘おうとして──それで、断られた。少し困ったような笑い顔で、落ち込む僕のことを、慰めてくれた。

「あった」

 それらしきフォルダが目に留まる。祖父が記していたらしい、白波についてのログだった。十数年近く前のものから亡くなる直前まで、時系列順にまとめられている。いちばん古いログに目を通そうと、僕はそれを開いた。高揚感のようなものが、忙しない拍動をさせている。

『現状、娯楽性を持つバーチャル上のコンテンツが着々と登場しつつある。それは今後、娯楽の主流になるだろう。人間がバーチャルのアバターを用いて、エンタメ的な動画をサイトに投稿している例は数多い。数が多いだけに、差別化を図らなければ成功する確率は低い。

 私はこうしたコンテンツの中に、あえてAIを放り込んでみたいと思っている。意志を持ち自律したAIを搭載し、3Dアバターを利用した、バーチャル上のヒューマノイド──バーチャル・ヒューマノイドの開発に着手しようと思う。既に開発が進んでいる家庭用・業務用ヒューマノイドとは異なり、娯楽やエンタメ性に振り切っているというのが、バーチャル・ヒューマノイドの特徴だ。

 この開発にあたって、かつての仲間とともにプロジェクトを始動し、老後の新たな目標としたい。』

 このログは二十年代初期のものだ。AIエンジニアとして長い間、AIネットコンテンツの発達に寄与してきた祖父は、ちょうどこの頃、会社を退職している。ゼロ年代、十年代と研究や開発を進め、実用化が果たされた現在のバーチャル上のコンテンツは、祖父たちがそれを担ったようなものだ。つまるところ、実績は多い。

 そんな祖父が、退職を機にこの島へと移住したのは知っている。悠々自適な老後生活を送っているだけと思っていたが、このログを見るに、どうやら違うらしい。

『3DアバターとAIの導入によって、バーチャル・ヒューマノイドの原型は完成した。世間の反響と評価は大きいが、しかしそのキャラクター性は薄い。感情表出に難があるのは、AI学習が不充分だからだ。今後、企業はこぞって競争を繰り広げるだろう。これに勝たなければならない。私個人だけでも、メンバーとは独立した研究を行うべきだ。現状で満足している彼らを残念に思う。』

『この3Dアバターは、素体としてのクオリティがかなり高い。構造に破綻がなく、高精細なグラフィック──だからこそ課題になるのは、AIそのものである。感情表出という面では、人間に及ばない。彼女のコードネームをステラと命名した。今後の研究に身が入る。(付記。二〇三四年八月、開発終了。彼女を白波と命名。コードネームはwhitewaveホワイトウェイブ)』

 モニターを凝視していたことに気付き、僕は親指の腹で、滲んでいた涙を拭い取る。そうして何度か瞬きをしてから、これだ、と呟いた。ベッドで寝息を立てている彼女を、横目で一瞥する。まさかとは思っていたが、目論見通りだ。白波は、僕の祖父が──四宮聡史が開発した、バーチャル・ヒューマノイドであるらしい。

 更にログを辿っていくと、こんなものも出てきた。

『ステラに搭載したAIの自己学習に、子供との接触が有効である可能性が出てきた。三年を目処に、孫の夏月とだけ交流を許可する。このためだけに、彼女のアバターを出力するための、高グラフィックかつ大型ディスプレイを購入した。プロジェクトにおいて公の研究対象でないステラの存在は秘すべきものだが、夏月との交流を行うことで、どのような変化が見られるのか楽しみだ。』

『三年もせずに、ステラは予想以上の発達を見せた。ひとまず夏月との接触は終了し、研究に没頭したい。大型ディスプレイへのアバター出力を取りやめ、今後はバーチャル空間での管理に留める。この件について、夏月には嘘をついた。しかし、いちばんまともな嘘でなければ、あの子に申し訳ない。必ず完成させて、再会を果たすつもりだ。いつになるかは分からないが……。』

「……ふー」

 ──七十ほどのBPMを抑えようと、僕は長い溜息を吐く。不思議と、大きなショックはなかった。僅かながらの可能性でも、予測できていたからだろうか。どうやらここまで、すべて祖父の既定路線だったらしい。

transferトランスファー whitewaveホワイトウェイブ』、つまるところ、『白波を四宮夏月に譲渡せよ』。祖父は亡くなる前から、既にこのプログラムを、スマートコントラクトに書き残していたらしい。祖父の死と引き換えに成立した契約だ。覆すことのできない、改変不可能な絶対契約。

 十数年前から白波の開発を進めていたのなら、ちょうど彼女も寿命を迎える頃合いだ。祖父としてはそれまでに研究を済ませ、完成に漕ぎ着けたかったのだろう。そして思惑の通り、実現した。寿命も間近とはいえ、遺品整理という形で、僕に彼女を預けた。これがあの時についた嘘の、いわゆる罪滅ぼしというようなものだろうか。

 胸のあたりが締まっているのを感じながら、僕は少し、ログを巻き戻してみる。ところどころ飛ばし飛ばしで読んでいたから、ぶっちゃけ、数年ぶんを一気に読むのは面倒だし、時間もかかるはずだ。……祖父はきっと、あの日のことも記しているに違いない。そんな期待を抱きながら、一年近く前の、夏のログを探していった。

 ──これだ。

『夏月を花火大会に連れていこうとしたら、ステラも同行させたいと言われた。現状、バーチャル空間でしか彼女は存在できない。そもそも、外部への持ち出しは避けたい。ステラを現実世界に投影させるのには、まだ技術が存在していないから不可能だろう。夏月に誘われて、彼女は露骨に苦笑をしていた。人を慰めるということの意味を、理解しているらしい。学習は順調か。』

 僕の記憶はやはり、間違っていなかった。だったら昨日、彼女に甘やかされたのも──それはそれで、悪くないと思えた。彼女に感じていた懐かしさも、記憶の奥底で、何かが共鳴していたということなのだろうか。人間の記憶というものは、つくづくよく分からない。

「……いやぁ」

 デスクチェアに深く腰掛けて、部屋を見回す。僕はここで、白波──昔はコードネームの『ステラ』と呼ばれていたようだ──に出会った。今なら、初恋の相手に抱いていたイメージにも、納得できる。彼女が淡々とした調子に思えたのは、今よりも感情表出の度合いが低かったから。外に出ようとしなかったのは、そもそも、バーチャル空間の中でしか存在できなかったから。けれど、その風貌だけは、やはり──昔から変わっていない。

 白波が、僕の初恋の相手だった。それは紛れもない事実として、こうして証明することができた。けれど、それは同時に、つい今しがた平静を取り戻した僕にとって、血の気が引くような事実でもあったのだ。八月三十一日に寿命で消滅する、という白波の言葉が、さながら呪詛のような心地の悪さとともに、胸臆に巣食っている。

 彼女は昔、僕と会っていることを、忘れているのだろう。ヒューマノイドの寿命が影響しているとか、十数年前の遠い記憶だからとか、そういう原因を挙げるつもりは毛頭ない。ただ、その事実を、忘れられている。これもまた、疑いようのない事実だ。彼女はそのまま寿命を迎えて、消滅してしまうのだろうか。僕だけがそれを覚えたまま、遂には言い出せずに、離別してしまうのだろうか。そう考えると、不意に、背筋に悪寒が走った。

 ──これが僕の我儘であろうと、少しくらいは、試してみたいような、抗ってみたいような気がした。どうすれば白波に、僕たちが昔、会っていたことを思い出してもらえるのか。寝ている彼女を見つめながら、考えた。


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