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【考察】クウガとン・ダグバ・ゼバの血戦はなぜ最高傑作なのか

究極の闇、なんと厨二心をくすぐるワードなのだろう。

そんな呑気な書き出しをしている場合ではない。
今回は平成第一作品で名作と呼び声高い仮面ライダークウガの48話「空我」について考察していく。

なんといっても印象深いのが、ン・ダグバ・ゼバとの最終血戦である九郎ヶ岳での戦いである。あえて血戦としよう。言うまでもないが、この戦いでは変身体と生身でのアクションともに、血飛沫を飛ばしながら、まさしく血で血を洗う戦いをしている仮面ライダー史上でも稀に見る生物的な戦いであり、これを血戦と言わずなんと言おう。

さて、この雪山での戦い、五代は一条に決心を打ち明けながら、自らがアルティメットフォームへと変化する姿を見せ、因縁のン・ダグバ・ゼバの元へと向かう。漆黒と金色の入り乱れたその姿は、まさしく雪景色に映える姿だ。
そして待ち受けるン・ダグバ・ゼバは、対照的に白濁の姿を身に纏う。純白ではない、悪たらしめるかのような生々しい白色だ。

ここで考えたいのは、彼らの色の対比構造だ。思えば生身のジャンパー姿も五代は黒一色であり、対してはン・ダグバ・ゼバ真っ白なシャツを羽織った出で立ちだ。
ポピュラーな色彩イメージで言えば、どちらかというと正義が白く、悪が黒いであろう。天使と悪魔を色でイメージするなら、まさしくそれに当てはまる。しかしながら、彼らにおいては自身の立場とは相反するイメージ色を身に纏っている。

この色の違いは単純な「正義と悪」ではないであろう。

結論としては、彼らの行動理念が色で表現されてるのではないかと思う。

ン・ダグバ・ゼバをはじめとしてグロンギたちはいわば快楽殺人鬼だ。彼らは無邪気に楽しみながらゲゲル(ゲーム)として人を殺している。純粋な快楽で人を殺めるその姿は、ある意味で純粋無垢だろう。

一方で五代は、正真正銘の正義の戦士である「クウガ」だ。たが、究極の闇をもたらす者と同質の存在となると危惧されていたアルティメットフォームは、悪と同等の存在である。

超古代民族リントは、アークル装着者が戦いの中で憎しみや怒りに呑まれ、「究極の闇をもたらす者」と同質の存在になることを危惧していたが、五代はやさしい心を失うことなく「凄まじき戦士」への変身に成功。

仮面ライダー図鑑より

しかし、五代もといクウガはやさしい心を失わず、真紅の瞳の凄まじき戦士になった。

純粋無垢な悪と、悪と同質の力を持つ正義。
それが白濁の強敵と漆黒の英雄との最終血戦として表現されたのだと思う。

そして、ヒーローの原動力はいつだって悲しみと希望だ。
仮面ライダーには古くから涙ラインがあるように、彼らはマスクで涙を隠し、戦っている。

血飛沫を浴びながら殴り合うその様は、まさに血みどろの戦いだ。白銀の雪景色で、彼らは人としての生身で殴り合う様子も描かれる。
純粋無垢に戦いを楽しむン・ダグバ・ゼバは笑みを浮かべる一方、仮面ライダークウガである五代は泣きながら拳を振るっている。

拳を振るうことに戸惑いすら覚えていた五代は、何よりも「人々を守る」ということのために、悲しみを背負い戦いに身を投じている。

綺麗な景色、真っ赤な血飛沫、激しい殴り合い、そして悲しみを背負う正義のヒーロー。
こんなにも胸を熱くさせる情景がセリフなく絵と息遣いで魅せられるからこそ、激烈な印象を残す傑作となったのだろう。

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