統合失調感情障害とは

統合失調感情障害と書くと、難しい内容のように見えますね。しかし説明するのは簡単です。統合失調感情障害と診断された場合、Wikipediaでも解説されていますように、統合失調症に加えうつ病、または双極性障害を併発するというケースになります。


統合失調感情障害とは何か?

統合失調感情障害は、統合失調症の症状(陽性症状:妄想や幻覚、陰性症状:無気力、集中力や意欲の低下)に加え、うつ病である抑うつ気分(憂鬱)、思考力の偏りや低下など、または双極性障害である気分障害(躁状態:度を越えた意欲状態、うつ状態:うつ病に似た抑うつ状態)を併発する場合に付けられる病名です。

症状

ここで記載する内容には不足があります。私自身精神病のスペシャリストではありませんし、私が経験したのは統合失調感情障害と診断された、その事実だけです。
そのため、ここでは私が経験した症状に留めます。

発病

私が発病したのは、21歳の秋でした。
病院で診断がくだる1週間前くらいから、調子が変だという自覚はありました。時系列で順に記載します。

・発病およそ1週間前くらい
 妙に感情に脆い状態になっていました。その頃付き合いのあった同性の部活の後輩(同性)とお茶を飲んだ時、普段では尋ねられないようなこと(性的なこと)まで深く尋ね、さまざまな話をしました。
 その頃購入してあったシルバーのリング2つを着けて外出しましたが、公園で変な電磁波が飛んでいるように感じ(表現自体が変ですが、他に表しようがないのでそのまま書きます)、その電磁波がリングに響いているように感じました。
 この辺りは表現が難しいですが、とにかく平常ではなかったと記憶しています。
 リングが電磁波を受けて振動しているように感じ、気持ち悪くなって通りがかりの公園にあったテーブルにリングを置いて、その日は帰りました。

・発病直前、1,2日前
 テレビを付けると普段の放送が流れておらず、おかしな画像と音楽が流れていました(詳細に記述すると長くなります、この後も長くなりますので、簡潔に記します)。私は怖くなり、なぜか部屋を片付けなければならないという強迫観念に駆られました。2部屋あるうちの1部屋は布団とテレビだけにして、もう一方の部屋に家具やゴミなどをどかしました。
 発病前日、翌日は住んでいる山梨から埼玉の実家へ帰ることになっており、怖い気持ちを抱えたまま布団で休みました。

・発病当日
 ここからの表現は完全に常軌を逸していますが、感じ取ったことをそのまま記述します。
 住んでいる山梨から実家のある埼玉へ電車に乗って帰ろうとしました。
 しかし全く実家に向かうことができず、高尾駅で電車が終点となり電車を降ろされてしまいます。時間は毎回17:17でした。何度繰り返してもまた高尾駅で電車を降りることになり、時間を見るとやはり17:17でした。高尾駅で大きな天狗の面の飾りが飾ってあったことを記憶しています。
 3回ほど繰り返し、何が起こっているのか理解できませんでしたが、実家へ帰省するためにはやむを得ないと思い、日が暮れる前に私は終点前で電車を降りてみることにしました。そのあたりには金色の塔が立っており、赤と緑のランプが点灯していておかしな容貌をしていたと記憶しています。私は乗り継ぎ駅を求め、彷徨い歩きました。まだスマホなどない時代です。色々な景色が記憶(のようなもの、妄想かもしない)に残っています。
 暗い中歩き疲れて、墓地のような場所で力尽きたように記憶しています。気がつくと、警察のパトカーの中でした。私は後部座席に寝かされていました。窓の外をネオンの光が通り過ぎていたように思います。
 ふと、バックミラーに目が行くと、そこに父親に似た眼鏡をかけた中年男性が運転席にいるように見えました(その頃父親は肝炎で地元の病院に入院していましたので、そのはずはありません)。どこかわからない場所で車は一時停止し、助手席に死神の姿をした骸骨に黒マントの人物が乗り込み、運転席の男性と話をしているようでした。私に分かったのは、私はまだやるべきことがあるので元の世界に戻しましょう、と話がまとまった様子だけでした。どんなやりとりがあったかの詳細は分かりません。
 もう一度気がつくと、運転席には警察官の方がいました。そして地元方面の駅で、迎えに来た家族の車に移動しました。私はひたすら暑いと言っては冷たい缶の飲み物を頬にあて、寒いと言っては温かい缶の飲み物をお腹にあて、うんうん唸りながら半覚半睡で実家へと帰りました。
 そこから1週間ほどして私は精神病棟に強制的に入院となりました。

経過

今現在も経過の途中とも言えます。大まかには一時的にではありましたが寛解と言われた日までの経過を、大まかに時期を分割して記載します。

・入院していた時期
 地元の精神病棟(閉鎖病棟)に入院しました。
 外部との接触は断たれ、母親が面会に来た時だけ携帯を使わせてもらう事ができました。私は必死に友人たちに現況を伝えようとしました。しかし「おかしくなった」くらいにしか語彙は出て来ず、その頃は統合失調症とも知らされていなかったので、精神病院に強制入院になったこと、それは頭がおかしくなったからだ、くらいにしか認識できていませんでした。
 友人たちが2組尋ねてきてくれました。1組とは会えたのですが、もう1組は男性がいたため看護師に面会を許されず追い返されてしまったそうです。住居の郵便箱に溜まってた郵便物を届けてくれて、大変にありがたかったのに、追い返してしまう結果になってとても悲しかったです。
 入院中しばらくは自分でも発言が変だと思うことはありましたが、それでも意地の悪そうな看護師さんに「そんなこと言っているから退院できないんだよ」と言われた事があり、大変に悲しかったです。
 必死に発言に注意し、リハビリを心がけ、およそ3ヶ月くらいで退院しました。

・実家での療養
 実家での静養はまさに苦痛そのものでした。将来が絶望的と思い込んでいたのと、思うように心と体が動かないのと、母親が家事を無理やり手伝わせようとしたことで、私の心はパンクしました。隠れてアルコールをあおるように飲んだり、ロックミュージックを聴いて室内で暴れたりしました。ひどい時期でした。
 それでも少しずつ冷静な思考ができるようになり、家庭教師のアルバイトを始めました。家庭教師はうっすらと楽しかった記憶があります。家族の方が良くしてくれたり、休憩中に生徒と話をしたりして、人心地がありました。
 だんだんと陰性症状を回復してゆき、その頃休学中の大学で学園祭に遊びに行くこともできるようになりました。そこで再開した後輩の男性とお付き合いすることになり、実家暮らしが苦しかった私はその男性と同棲を始めました。

・独り立ちするまで
 お付き合いする男性と同棲を始めたはいいものの、金銭的にまで世話になることはできず(相手は学生)、夜のクラブで男性のお酒の相手をして凌ぎました。彼が卒業するまではそのような暮らしを続け、卒業後、彼が社宅で一緒に住んでもいいと言ってくれたのですが、心苦しく、お別れしてしまいました。
その頃に言われて苦しかったのは「◯◯ちゃんらしくないよ」という一言でした。私自身、怖くても頑張っていたので、その一言はショックでした。普段の私は明るかったかもしれませんが、不安な時は誰にだってあると思います。そんな時まで明るくしていることは難しいと思います。
彼から逃げるようにして、知り合いの伝手でボロアパートへ引っ越したり、挙げ句の果ては他の男性の自宅へ転がり込んだり、散々な暮らしをしました。
 実家を出てからは、近くの精神病院にかかろうとはしたものの、なかなか統合失調症に理解のある医師がおらず、診断の不備ではないかと言われたり、薬もその時によってさまざまな薬を処方されて、飲む意味があるのか納得できず、飲んだり飲まなかったりを繰り返して、精神的にも不安定でした。

・独り立ちしてから
 同棲していた男性に浮気をされ、別居を決意しました。その頃は派遣のような、アルバイトのような仕事をしていたので、ボロですがアパートを借りる事ができました。そこからだんだんと精神的に安定していった気がします。
 一人になると却ってその方が気楽であることに気がつき、一人の生活を謳歌しました。人との出会いのお陰でプログラミングに興味を持ち、日中仕事をしながら夜間学校に通ったりもしました。体力が漲っていて、人生の最高潮のような時期でした。

・人間不信になる
 夜間学校に通って学びプログラマ/エンジニアを目指しましたが、障壁は多く、まず学校の先生が「プログラマに女性は要らない」と言ったり、就職課の先生に「現役の学生が優先」と言われたり、全く協力を得られませんでした。
 果ては、講師の先生だった方に口を聞いてもらって入った会社でパワハラに遭い、先生だった方は上司の上司にあたる立場だったにも関わらず私に力を貸してくれず、辞めることになり、酷い人間不信に陥ってしまいました。

・実家へ帰る
 その後何度も仕事に復帰しようとしましたが、人が怖くて堪らず、1日しか出勤できなかったこともありました。何度か就職と退職を繰り返した後、全く働けなくなり、経済的に困窮し、埼玉の実家へ戻りました(その前は都内に住んでいました)。
 実家で嫌な思いも沢山しましたが、その頃出会ったEMDRという心理療法で少しずつ精神的に回復していきました。
 パソコンを使ってブログを書くようになり、徐々に人との交流を楽しめるようになっていきました。ブログを通じてアルバイトが決まり、在宅勤務で働けるようにもなりました。
 家族とはぶつかったり離れたりしていました。ただ、記憶に残っている良かったことは、毎日のように一番風呂に入らせてもらっていた時期です。この頃はお風呂が心地良かったです。家族の圧力で一番風呂を遠慮するようになってから、お風呂が億劫になり、逆にほとんどお風呂に入らなくなってしまいました。たまに入っても、家族の入った後のお湯はなんだか気持ち悪かったです。そのくらい、家族とは気持ちが行き違っていたのだと思います。

寛解(一時的)

実家で一番風呂に入れて、好きなようにコンビニで食べたいものを買って食べて、好きなようにブログを書いてしていた頃、一番幸せだったと思います。この頃、初診で統合失調感情障害を診断した病院に通うようになっていました。この頃の出来事だと思うのですが、ハッキリとは思い出せないのですが、病院の診断書をもらおうとして医師に相談したところ、「病名は見当をつけるものであって、今困っている事がないのなら、病気ではない」と言われました。一般的に言われる、寛解という状態のようでした。

考えられる対策

残念ながらその後、統合失調症を再発してしまいます。きっかけは家族とのコミュニケーションのストレスや、コロナ禍のストレスなどでした。

精神病も遺伝の性質があると言われる事がありますが、私は信じていません。母から聞いて限り、父親の系譜と母親の系譜にそれぞれ精神病歴のある親族はいませんでした。

私は、統合失調症になった人には自己肯定感や安心感が必要で、それらがないことで発症してしまうように感じています。自分を否定してくる人との軋轢によるストレスや、不安定で安心感のない生活が発症を招くのではないかと思います。

私の場合、実家で一番風呂に入ってしばらく良好な状態だったのが、なぜか兄が「俺の買ってきたビールがない」と言い始めたことです。冷蔵庫の中から無くなった、という意味合いです。
私はビールが好きで、コンビニで購入して好んで飲んでいましたが、人様のビールに手をつけた記憶はありませんでした。しかし、兄は在宅勤務で仕事ができるようになった私が疎ましくて嫌がらせをしたようです。その悪意を感じました。
兄は機嫌が悪いと、台所のシンクに立てかけた牛乳パックの空きを、床に散らばせておくことがあると、母に聞きました。こういう、兄は意地悪をするのだ、という母親からの刷り込みも、影響が大きかったと思います。

さらに、私が購入したトコロテンを、母が開けて食べずに台所のシンクに捨てました。これは、後で確かめたところ、冷蔵庫は家族で共有しているから、勘違いはあることだよ、気にするなと言いたかったらしいのですが、私には理解できませんでした。母からのさらなる嫌がらせに感じました。
そもそも気にしないことができるのであれば既にそうしています。兄からの嫌がらせに心を痛め、それに加えて母親からの圧力を感じた私は、また一人暮らしになりました。

これらのことから、発症を防ぐにはまず人間関係が良好であること、安心感や安定感のある生活が必要だと感じています。

まとめ

私自身の私情も挟んだため、分かりにくくなってしまったかもしれませんが、私の場合には「統合失調感情障害」=「統合失調症」+「うつ病」のようです。何か不穏な状況があると、うつ病を併発しやすいのは自覚があります。
元気な時は予定を色々と詰め込んでしまうのは「双極性障害」のようにも感じますが、今のところ予定をこなせているので、その点では問題ないのかもしれません。

統合失調感情障害について、具体的な症状は私自身の体験しか記述していませんが、なんとなくお分かりいただけましたでしょうか。少しでもあなたのお役に立てましたら幸いです。


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