ライト・ブリンガー 蒼光 第五部 第六章

第六章 「イクシード」

 光は蒼い閃光を放ち、修がシェイドのいる空間を横に裂くように破壊する。
 シェイドが踏み込んだ。光の攻撃に対しては横へ、修の攻撃に対しては前方へと動いてやり過ごす。シェイドの腰の後ろに、何かが下げられているのが見えた。金属製の筒が二つ、音を立てた。
「修!」
「解ってる!」
 光の呼びかけに、修が応じる。
 刹那、部屋中に修の力場が展開する。軽く二桁に達する数の攻撃範囲へ、更に逃げ場を塞ぐように光が閃光を拡散させる。縦横無尽に駆け巡る一撃必殺の攻撃を、しかし、シェイドはかわして見せた。
 床を破壊し、下方へと逃れると同時に床越しに光と修へ閃光を放つ。光と修は飛び退いてかわし、シェイドが床に空いた穴から同じ階層へと戻る。
「遅いな」
 シェイドが呟いた。
 瞬間、シェイドの姿が目の前にあった。閃光型の具現力で拡大させてぎりぎり視認できるかできないかという速度だった。並の能力者には見えないかもしれない。まるで、光速かと疑ってしまうような速さだ。
 咄嗟に跳ね上げた両手でシェイドの突きを防ぐ。間一髪のところでシェイドの手首を腕で弾き、凌いだ。防護膜の動く感覚を察知し、回し蹴りを腕で受け止める。だが、受け止めた衝撃は凄まじいものだった。列車に撥ねられたかのような衝撃が光を吹き飛ばす。ホテルの壁を砕いて隣の部屋を貫通し、更にもう一つ奥の部屋まで吹き飛ばされた。壁への激突よりも、シェイドの蹴りの威力の方が圧倒的に高い。
 幸い、客の姿はもうなかった。避難したのだろうか。
「ぐ……」
 呻いて、光は身を起こす。防護膜がなければ間違いなく死んでいた。それほどまでに防護膜が強力なものなのだと、再認識する。
 最初から全力での攻撃を仕掛けたはずだった。確かに、シェイドは光よりも強い相手だ。
 見れば、修が一人でシェイドと戦っている。
 三桁に達する力場で攻撃をし続け、シェイドを近寄らせぬようにしていた。時折放たれるシェイドの反撃を、修は防ぎ切れていない。空間破壊で掻き消して凌いではいるが、かわすことは不可能なようだった。元々、修の防護膜は知覚の拡張に特化している。相手の行動に対してワンテンポ早く対処できるから敵の攻撃をかわすことができるのだ。ただ、シェイドのように速過ぎる相手では肉体強化の小ささが一番ネックになる。
 光は瓦礫を押し退けて立ち上がり、駆け出した。
 修の展開する力場の位置を読み、シェイドの動く方向へ意識を集中させる。オーバー・ロード寸前まで力を引き出し、シェイドの動きをどうにか捉えた。
 シェイドの横合へと急接近し、光が拳を突き出す。シェイドが掌でそれを打ち払い、足を蹴り上げる。蹴りを両腕を交差させて受け止めた光が天井へと跳ね上げられる。天井を突き破りながら、光は痺れる両手から閃光を放ち、拡散させた。
 雨のように降り注ぐ閃光を、シェイドは右腕を振り払って障壁を作り出して防いだ。同時に、その障壁を光へと飛ばす。上の階の床を転がって障壁をかわす光へ、シェイドはそのバリアを爆散させた。衝撃波が光のいる部屋を丸ごと吹き飛ばし、光は白い防壁を身体の前面に形成して凌ぐ。
 背筋に寒気が走る。
 修の力場はずっと感じていた。シェイドに蹴り上げられる時にも、彼の身体を切り刻むように修の力場が展開していたはずだ。だが、シェイドは修の攻撃を掻い潜っている。光を蹴飛ばしながら、修へも黒い閃光を放ち、牽制して空間破壊の効果発動を一瞬だけ遅らせる。その間に光への攻撃を済ませ、回避に転じているのだ。力場破壊などないはずなのに、一瞬で攻撃を見切っている。
「くそ……」
 思わず、毒づいている。
(……まるで、刃と戦っているみたいじゃないか……!)
 光は奥歯を噛み締めた。
 雨の降る河原で戦った刃に、光は勝てなかった。オーバー・ロードしていたにも関わらず、刃に触れることさえできずに敗北した。あの時、絶対的な力の差を痛感した。訓練や慣れではなく、心や思いで負けていたのだと。
(あの時とは、違うだろ!)
 自分自身に言い聞かせる。
 怒りに任せて戦ったあの時とは違う。守りたいもののために戦うと誓った。守りたいから戦うと決めた。オーバー・ロードせずとも、力場破壊だって使えるのだ。
 光は下の階層へと飛び降り、シェイドの背後へと移動する。修と挟み撃ちにするような構図で、光は両手から幾筋もの閃光を放った。修もそれに応じるように部屋中に力場を展開し、空間を破壊する。シェイドは閃光の合間を縫うようにかわす。だが、破壊された空間に達した閃光が別の方向に現れ、シェイドへと向かう。部屋中を網目のように縦横無尽に駆け巡る閃光に、シェイドが薄く笑みを浮かべた。
「少しはできるじゃないか」
 感心したとでも言うような口ぶりを、光は無視した。心を乱してはいけない。
 シェイドは自分を包むように円形に障壁を張り、あらゆる方向からの閃光を防いだ。中に紛らせた力場破壊の光が障壁を貫く。だが、障壁の中にシェイドの気配はなかった。
 一瞬のうちに、シェイドは下の階層へ移動していた。障壁が貫かれると同時に、それを爆破するように拡散させ、シェイドがまた同じ階層へ戻って来る。
 力場破壊の障壁で防ぎながら、光はシェイドへと突撃した。だが、次の瞬間には、光の身体は脇の壁を突き破って吹き飛ばされていた。力場を察知する光の特性は、確かにシェイドの動きを捉えていた。ただ、その動きは今の光ですら肉眼では捉え切れない速度のものだ。動きを認識できても、身体が反応し切れない。
「ヒカル!」
 セルファの声が聞こえた。咳き込みはしたが、まだ意識ははっきりしている。
 オーバー・ロードを繰り返してきたせいか、肉体的にもかなり鍛えられているのかもしれない。
 立ち上がった瞬間、シェイドが修に蹴りを放っているのが見えた。どうにか、両手を交差させて修が蹴りを防いでいる。だが、その腕がしなったように見えた。
「ぐっ……!」
 直後、骨の折れる音が聞こえた。吹き飛ばされる修の両腕が、あらぬ方向に曲がっている。そのまま、背後にあったホテルの窓ガラスを突き破って外へと落下して行く。
「修ーっ!」
 跳ね起き、駆け出した光に、横合いから蹴りが叩き付けられた。
 凄まじく重い蹴りを両腕で受け止める。防護膜の強靭さのお陰か、修のように骨を砕かれることはなかった。だが、衝撃に耐え切れず身体が吹き飛ぶのは防ぎ切れない。窓枠に背中から激突し、壁と窓ガラスの両方を巻き込んで光が外に弾き出される。
 吹き飛んだ光の視界に、セルファが映った。必死で手を伸ばすセルファに、光も手を伸ばした。指先が触れ、絡み、握り合う。彼女の背後に見えたシェイドからセルファを守るように、光は思い切り手を引いた。窓から飛び出すセルファを抱き止めながら、十階の高さから落下する。
 見下ろした地面には、修と有希が見えた。空間破壊で二人とも安全に着地できたらしい。
「着地は、任せて」
 セルファが囁いた。
 光たちの落下速度が徐々に低下し、地面に着く頃にはほとんど止まっていた。重力制御だろうか、空間干渉で落下速度の相殺をしたのだ。肉体的な負担にならぬよう、ゆっくりと速度を落として。
「修、大丈夫か?」
「腕ぐらいなら、なんとかなる」
 腕がなくとも力場は扱える。戦闘の続行は可能だ。もちろん、回避や防御の面では不利だが、後方から光の支援に徹するなら心配はないかもしれない。もっとも、シェイドがそれを許すとは思えなかったが。
 あれだけの高さを何でもなかったかのようにシェイドが着地する。光はセルファを後ろへと下がらせて前に出た。修も、とりあえず腕の骨だけを有希にくっつけてもらった状態で立ち上がる。
 シェイドが駆け出した。防護膜の動きでどうにか捉え、光は光弾をばら撒く。更に蒼白い雨を降らせるが、シェイドはその合間を駆け抜けて来た。踏み込みが早く、攻撃を意識した瞬間には回避に移動しているのかとすら思ってしまう。
 回し蹴りから裏拳、突き、ハイキックと流れるようなシェイドの攻撃を、光は両腕でどうにか防ぐ。蹴りを防いだ勢いを遠心力に加算して、光が回し蹴りに転じる。シェイドは光を跳び越え、空中から光弾を放ちながら修へと駆け出した。力場破壊の障壁で光弾を打ち消し、後を追うが、その時には既に修の目の前にシェイドがいた。
 蹴りを防いだ修の右腕が折れ、足払いで体勢を崩し左肩に膝を突き込まれる。修の左肩が砕け、倒れた修の右脚をシェイドが踏み潰す。
「ぐああぁぁぁっ!」
 修の絶叫が響いた。
 肩と大腿部の骨が砕け、筋肉や皮膚に突き刺さって夥しく出血する。そのままトドメを刺そうとシェイドが拳を振り上げた瞬間、修と有希の姿が消えた。
 セルファの力場だ。セルファが二人を離れた場所へと退避させたのだ。
「勝手なことして、ごめんなさい」
「いや、助かった!」
 申し訳無さそうなセルファの言葉に、光は力強く答えた。光もセルファにそうして貰おうと、叫ぶところだった。だが、光がセルファに叫んでからでは遅かったかもしれない。有希がいれば、修の傷は手当できる。だが、あの怪我の具合から考えるとこの戦いには復帰できないだろう。
「一人で勝てるとでも思っているのか?」
 シェイドが小さく笑う。
 ここからは、一人でやるしかない。
「勝てるかどうかなんてもう関係ないだろ」
 戦いになってしまった以上、もうどちらかが死ぬまで戦うしかない。セルファの力で逃げることを前提していたら、VANを潰すことなど夢のまた夢だ。力場破壊を駆使して戦うとなれば、逃げるために展開したセルファの力さえ消してしまう。逃げたとしても、シェイドという存在がいる以上、この地球上に逃げ場はないと考えることだってできる。シェイドを倒さない限り、前へは進めない。
「セルファは、返してもらう」
「てめぇのモノじゃねぇだろうが!」
 シェイドの言葉に、光は駆け出した。踏み締めるその一歩ごとに、加速する。防護膜が輝き、厚みを増していく。内側から溢れ出してくる力を、全身に誘導して馴染ませる。そして、その力を操る。
「オーバー・ロードか……」
 シェイドが口の端をつり上げて笑みを深めた。
 突き出した拳を、シェイドが掌で受け止める。力任せにシェイドを弾き飛ばし、左手を薙ぎ払って閃光を放った。横へと転がってかわそうとするシェイドへ、閃光から雨のようにエネルギーを飛ばす。足が地面についた瞬間、シェイドが大きく地を蹴った。オーバー・ロード並のエネルギーを一点に集約させて発散し、凄まじい勢いで光へと突撃してくる。
 放たれた拳を、光は手首を弾いて勢いを逸らして凌いだ。膝蹴りに膝蹴りをぶつけ、弾き合う。シェイドの放つ閃光を純白の障壁で防ぎ、距離を詰めて殴り合う。
「筋は良いが……時間が足りなかったな」
 シェイドの攻撃頻度が少しずつ増していく。
 オーバー・ロードを続ける光の速度を、シェイドは上回っている。破壊特化という特性の増幅効果も高いのだろうが、何よりシェイドの方が経験値が多いのだ。光よりも、身体を鍛え、精神を鍛え、身体に力を馴染ませている。
 一瞬だけのオーバー・ロード。シェイドは攻撃や踏み込みの一瞬だけにオーバー・ロードを発動し、生命力をほとんど消費せずに莫大な力を使役していた。だから、オーバー・ロードしている光にもついていける。同時に、一瞬だけの威力や速度を光以上のものにしていた。
「これが、本当のオーバー・ロードの使い方、イクシード・ロードだ」
 シェイドはそう言った。
 感情や強い思いによって発動させるオーバー・ロードを、意図的に一瞬だけ引き出す。理性だけでオーバー・ロードを引き出すのは難しい。寿命を削るという行為そのものが、生きるための戦いという理屈に矛盾するからだ。だから、理屈抜きの感情が最もオーバー・ロードを引き出し易い。
 寿命を削ることに対する本能のセーフティを、自分の意志で外せるだけの精神力がなければ、シェイドのような戦い方はできないだろう。
 光は、まだその領域には踏み込んでいない。
「一撃でも当てることさえできれば……!」
 光が突き出した拳を、シェイドが受け止める。
 その手に纏わせたエネルギーを解き放ち、シェイドに炸裂させた。だが、蒼い閃光が散るより先に、シェイドが光の手を放している。手首を弾いて向きを逸らし、懐に飛び込んで下方から拳を振り上げる。
 左脚を軸に回転してアッパーを避け、同時に回し蹴りを放った。腕で蹴りを受け止めるシェイドに、光は足に纏わせたエネルギーだけをそのまま叩き付ける。シェイドは漆黒の閃光で障壁を作り出し、光のエネルギーを相殺させた。
「これ以上は時間の無駄だな」
 シェイドの防護膜が濃さを増した。
 光の回し蹴りを掴み、上空へ放り投げる。上空から雨のようにエネルギーを降らす光の背後に、シェイドの姿があった。放り投げると同時に、自分も跳んでいたのだ。光がエネルギーを纏わせた腕を薙ぐ。シェイドの踵落としが腕と激突し、光が押し負けた。
 背中から地面に叩き付けられ、大きく身体が跳ねる。起き上がった瞬間、シェイドの蹴りが来た。左腕で受け止め、肘で足を押し上げるようにしていなす。
「――っ!」
 直後、シェイドの腕が見えた。後方に大きく引いていた右手が、漆黒の輝きに包まれている。いなされた回し蹴りの勢いに加速して、右手が突き出される。
 光の左腕は上がったままだ。右腕で、シェイドの突きを横合いから掴もうとする。
 漆黒と純白の輝きが、周囲に散った。
 そして、衝撃。
「……やるな。ここにきて、予想以上の力だ」
 シェイドが呟いた。
 突き出されたシェイドの右手は、光の左胸に掌底を叩き込んでいる。ただ、その手に防護膜はない。命中の寸前に光がシェイドの手を掴んだことで、力場破壊が腕だけとは言え防護膜と攻撃エネルギーを掻き消していた。
 だが、通常のオーバー・ロードを超える速度で突き込まれた掌底は、それだけでも極めて大きな破壊力を発揮する。
「……っ!」
 声が出なかった。
 いや、息ができない。平衡感覚が狂い、視界が揺らぐ。ゆっくりと、意識が暗く染まっていくように、何も考えられなくなっていく。
(セルファ……)
 声が聞こえた気がした。ゆっくりと、身体が仰向けに倒れていくのをぼんやりと理解していた。
 そして、意識の途切れる寸前、雷鳴が確かに聞こえた。

「いやあああああああああああ――っ!」
 セルファは絶叫していた。
 ヒカルが負けた。何が起きたのか、セルファには見えていた。空間干渉で把握していたことが、余計に絶望感を膨らませる。
 防護膜は消されたものの、命中した掌底は単純な運動エネルギーを衝撃としてヒカルの体内に打ち込んだ。場所は、心臓だ。直接衝撃を心臓に打ち込まれたヒカルは、そのショックで心停止を起こしたのである。具現力、しかもオーバー・ロード状態の防護膜がなければ心臓が破裂していたところだろうが。
 心停止と同時に、波紋のように全身へ広がった衝撃が横隔膜をも停止させ、呼吸を止めた。
 ヒカルの防護膜が消えたのが、彼の死を確信させてしまう。
 一瞬遅れての雷鳴と共に、ヒカルとシェイドの間に雷が落ちた。そして、その雷が落ちた場所に、抜き身の刀を手にしたジンが経っていた。
「……当たるのが、早過ぎたな」
 倒れたヒカルを一瞥して、ジンが舌打ちした。
「ジン……!」
 ここにきて、シェイドが始めて目を見開いた。腰の後ろに下げられた二つの筒から剣を抜き放ち、油断なく身構える。
 ジンはヒカルの前まで歩み寄ると、その胸倉を片手で掴んで持ち上げる。
「ヒカルが……ヒカルが……!」
 涙をぼろぼろと零しながら呆然と呟くセルファの目の前に、ジンがヒカルの身体を放り投げた。
「何するの!」
「蘇生させろ」
「え……」
「お前の力なら、まだ間に合うはずだ」
 言い放ち、ジンはシェイドへと視線を向けた。
「何のつもりだ、ジン」
「まだ、あいつに死なれては困る理由があるんでな」
 忌々しげに問うシェイドに、ジンはそう切り返した。
 意図は、解った。ジンがシェイドを押さえている間に、ヒカルを蘇生させてこの場を離れろというのだ。
「どうにか、間に合ったか……?」
 いつの間に現れたのか、セイイチが隣にいた。いや、セルファの注意力が散漫になり過ぎて周りの状況を把握し切れていないだけか。
 ジンを連れてくるのがセイイチの目的だったらしい。シェイドと何度も渡り合っているジンなら、最悪でも追い返すことはできる。そう考えたに違いない。ジンの言うように、ヒカルはまだシェイドと戦うには早過ぎたのだ。だからこそ、シェイドは今ヒカルを狙ったとも言えるのだが。
「攻撃は俺が逸らす。蘇生に集中するんだ」
 セイイチが力場を展開し、ヒカルとセルファを守るように空間を捻じ曲げる。
 ジンとシェイドの戦いは既に始まっていた。雷光に包まれた刀を、闇に覆われた二つの剣が受け止める。雷鳴が轟き、ジンがシェイドの背後に一瞬で移動する。雷と同じ速度で振るわれた刀を、シェイドが受け止める。その表情に、ヒカルと戦っていた時のような余裕はない。ジンにも、余裕は見られない。互いに、最初から全力でぶつかり合っている。
 雷を操るジンは速度も破壊力も、能力者の中ではトップレベルにある。イクシード・ロードによる瞬間的な能力拡張で、シェイドはジンと対等に張り合っていた。
「……ヒカル」
 呼吸も、心拍も無いヒカルを見つめて、セルファは涙を拭った。
 力場でヒカルを包み込み、空間に干渉するように身体に触れる。膝の上にヒカルの首を乗せて気道を確保し、具現力で心臓と横隔膜を直接動かす。
 一定のリズムで、速過ぎず遅過ぎず、自分自身の呼吸と心拍に合わせてヒカルの心臓と横隔膜を動かした。
(お願い……)
 拭ったはずの涙が、また頬を伝う。
(生きて……!)
 ぼろぼろと、涙がヒカルの頬へと零れ落ちていく。
 まだ、ヒカルの心臓は自力で動いてはいない。横隔膜も、セルファが意識を緩めれば止まってしまう。
(死なないで……!)
 肉体が全て無傷なままのヒカルは、きっと有希にも蘇生できない。この場で、セルファを除いてはヒカルを蘇生させられる者はいなかった。
 ただ、同じリズムを刻んで心臓と横隔膜を動かすのは思いのほか辛い。速くやればそれだけ早く回復するのではないかと錯覚してしまう。
(あなたがいなくなったら、私は……!)
 視界は滲み過ぎて、何も見えなくなっていた。目をきつく閉じて、溢れ出る涙をヒカルの頬に落としながら、セルファはただリズムを崩さないように力を使い続けた。
 ヒカルがいなくなったら、セルファはこれから何を目標に生きていけばいいのだろうか。ヒカルは、セルファにとって憧れに近い存在だった。どこか窮屈な思いをして生きてきたセルファにとって、ヒカルは羨望の対象だった。
(あなたが死んだら、私も死んでやる……!)
 どんなに過酷な選択肢でも、ヒカルはただその先にあるものを得たいというだけで選んだ。自分に後悔しないように、厭だと思うことは選ばない。賢い生き方だとは思わなかった。だが、その自由な心に憧れた。ただ、望むことのために動く。そんな単純なことに惹かれた。
(守ってくれるんでしょ……?)
 君だけは必ず守る。精神世界ではなく、現実に、初めて出逢えた日にヒカルが言ってくれた言葉だ。
 ヒカルは守りたいものを守るために、戦う。平穏な生活や、家族、親友、そんな身近なものがヒカルにとって守りたい対象だった。その対象にセルファが入ったことが、嬉しかった。
(これでお別れなんて、絶対にイヤ……!)
 まだ、戦いの音が聞こえる。
 雷鳴が轟き、瞼を閉じていても雷光が感じられた。金属のぶつかり合う音も聞こえる。
(折角、逢えたのに……!)
 VANの中で過ごしたセルファにとって、ヒカルたちの日常は新鮮だった。出逢えて、ヒカルの家で過ごした時間はとても楽しかった。カオリの作る家庭料理もどこか温かみのあるものに感じられた。シュウと談笑するヒカルの横顔。その中に混じる自分の笑顔。ユキと話したお互いの相手の話。
(まだ、一緒にいたいのに……!)
 ヒカルが守りたいものが、出逢う前以上に理解できた。まだ、それを感じていたい。ヒカルの、隣で。
 目を開けても、ヒカルは息を吹き返さない。
 絶望に諦めてしまいそうになる心を奮い立たせ、セルファはひたすら力を使い続ける。
「隊長、帰還命令が!」
 女性の声が響いた。シェイドの部下、シルエッタの声だと気付くのに少し時間がかかった。
「アトラスやアニマージェはどうした!」
「翔と瑞希が押さえているはずだ」
 シルエッタへと投げたシェイドの言葉に、ジンが答えた。
 シェイドの部下、つまり第零特殊突撃部隊の隊員は三人だ。シルエッタ・ソードと、アトラス・ブランディッシュ、アニマージェ・フェルという三名のみがシェイドの部隊を構成するメンバーだった。戦闘能力は三人とも極めて高く、特殊部隊長クラスの実力者だ。たった四人の部隊ではあったが、任務の達成率は極めて高い。
「許すのは報告まで。もちろん、まだ戦うつもりなら、私も黙ってはいないわよ」
 セルファたちを庇うように、カエデが舞い降りる。その両手には、短刀が一つずつ握り締められていた。
 今まで、シルエッタはカエデと戦っていたのかもしれない。帰還命令の報告と撤退は許しても、戦うつもりであれば応戦するということなのだろう。ROVのトップが、ヒカルを守るために展開しているということだろうか。
 シェイドの表情が苛立ちに歪む。
「また、逃げるのか?」
 挑発的なジンの言葉に、シェイドは表情を消した。
「何度も言わせるな。俺にとってはVANが全てだ」
 VANからの命令であれば、シェイドは従う。彼にとっては父と呼んで尊敬するアグニアと、彼が作ったVANという組織が何よりも優先されるものだった。
 組織のためだからと、独断で戦闘を続行するなどと言ったことは決してしない。
「撤退する。二人にもそう伝えろ」
 言い、シェイドは大きく後ろへと跳び退った。シルエッタは仲間のいるであろう方角へと大きく跳躍して姿を消した。
「逃がすか……!」
 その場から姿を消したように見えたシェイドを、ジンは追おうとする。
「待って!」
 ジンの背中へ、セルファは叫んだ。
「ヒカルが、目を覚まさないの! 私、どうすれば……!」
 また、涙が溢れてきていた。
 これほどまでに不安になったのは初めてだった。今まではどこか諦めにも似た感情を常に抱いて生きてきた。だから、既に不安を感じることはなかったのだ。もしも不安だと思えるものがあるとしたら、それは自分の将来のことだろう。ただ、ヒカルたちと行動を共にするようになってからは違う。
 希望に溢れているとさえ感じるほどに、楽しい時間が多かった。諦めを抱いて生きてきたのが嘘のように、自分はこんなにも前を向いて生きたかったのかと思えるほどだった。ありのままの自分でいることが、嬉しい。
 それ故に、ヒカルの存在が失われることが逆に酷く不安をかきたてる。楽しかった時間が、自分を抑えて生きてきたことが、ようやく得られた全てが、消えてしまうことが怖い。
「心拍も、呼吸も、やっているのに……」
 敵がいなくなったことで、セイイチも力場を解除していた。
 ジンはゆっくりとセルファの下へ歩いてくる。
「少し、離れていろ。心拍と呼吸はそのままにな」
 ジンの言葉に、従い、セルファはヒカルを地面に下ろし、数歩下がった。
 力場による気道の確保と、心臓マッサージ、横隔膜の強制動作はそのままに。
 ジンは抜き身の刀の切っ先をヒカルの心臓へと向けた。その先端がヒカルの肌に触れる。何をするつもりなのか、セルファは理解した。
 刹那、雷鳴が轟いた。ジンの手から刀を伝ってヒカルの身体へと雷が注がれる。心臓にピンポイントで雷撃を命中させ、強烈な電気ショックを見舞った。
 ヒカルの身体が大きく跳ねた。
 もちろん、電気ショックのために威力などは調整されている。それでも、少し怖かったが。
「あ……!」
 そして、セルファは確かに感じた。
 ヒカルの心臓が、自ら鼓動し始めるのを。自発呼吸もしている。ヒカルが、生き返った。
「ぅっ、うぅ……」
 やがて、どこかまだ苦しげな呻き声と共にヒカルがゆっくりと目を開けた。
「セルファ……?」
 多少ぼんやりとはしているものの、ヒカルは確かにセルファの名前を呼んだ。
「ヒカルっ!」
 瞬間、ダムが決壊したように涙が溢れ出した。
 セルファは、身を起こしたヒカルの胸に顔を埋めて泣いた。

 一度は途切れたはずの意識が再び戻ってくる。何も見えず、何も聞こえない。ただ、暗闇の中にぼんやりと意識が浮いている。
 とても遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。答えたいと思っても、身体が動かない。目が開かない。口も動かない。霞んだ意識の中で、ただ、少しだけ温かさを感じていた。
 遥か遠くに、翡翠色の綺麗な明かりが視える気がする。とても大切なものに見えた。手放してはならない、手放したくない、大切なものに。
 手を伸ばそうとして、できなかった。動かない身体に、苛立つ。
(もっと、俺に、力があれば……!)
 足りない。
 光には、まだ力が足りない。力場破壊も、閃光型の力も、かなり熟練してきていると思っていた。だが、それはここ数ヶ月の間で比較した場合の話だ。
 光よりも年月を重ねて力を使い込んできた能力者との差は、大きい。光の力がずば抜けて高いものだったとしても、同じだけの素質を持つ者がいれば覚醒してからの時間が長い方が熟練しているのは当然だ。その差を埋めるのは、並大抵のことではない。
 負けたのはこれで二度目だろうか。
 一度は刃に破れた。頭に血が上っていたというのもあるだろうが、それでも光は負けたのだ。冷静に戦えなかった光の方に落ち度がある。あの時は、手加減すらされていた。
(俺は、まだ、死にたくない)
 強く思った。
 今まで、具現力を使って戦うことで命を落とす可能性はいくらでもあった。ただ、光の持つ力のポテンシャルがそれらの可能性を打ち砕いていっただけだ。
(力に頼り過ぎていたのかな……)
 もしかしたら、閃光型の力に力場破壊能力が加われば無敵だと思っていたのかもしれない。破られる方法は自分でも考えていたが、それも特定の力でなければ不可能だ。
 戦えば相手は死ぬ。自分が生きる代わりに。
 頭では理解していても、実感はあまり無かったのかもしれない。
 ただ、実際にシェイドに殺されて、光は解った。死にたくはない、まだ生きていたい。そう思いながら敵も死んでいったのだと。だが、それでも、光は立ち向かってくる相手を蹴落としてでも生きたいと思った。
 一瞬、全身を激痛が駆け巡った。暗闇だった視界が閃光に包まれる。
 そして、身体に感覚が戻り始めた。
 重い瞼を持ち上げる。
「セルファ……?」
 隣には、セルファがいた。涙でぐしゃぐしゃのセルファの顔に、光は胸が痛んだ。
 鉛のような身体をどうにか動かして、身を起こした。
「ヒカルっ!」
 セルファが飛びついてきた。光に抱き付いて、胸に顔を埋めて泣いている。
 ぼんやりとした意識が、少しずつはっきりしてきていた。
「……そうか、俺、助かったのか」
 シェイドに負けた時、意識を失う寸前、絶望にも似た死が脳裏を過ぎった。死んだ、とそう思った。VANとの戦いで負けるということは、死を意味するのだから。
「セルファに感謝するんだな」
 刃の声に、初めて彼がこの場にいることを知った。
 何故、と一瞬浮かんだ疑問は聖一の姿を見て理解した。
「手遅れにならなくて良かった」
 聖一が安心したように小さく息をついた。
 彼が刃に救援を求めたと考えていいだろう。そのお陰で、恐らく光は一命を取り留めたのだ。もし、刃がいなければシェイドは確実に光を始末していたはずだ。肉体を抹消するか、頭部を潰すかなどの方法で、確実に。
「停止した心肺機能を彼女が動かし続けていなければ、お前は死んでいた」
 刃の言葉に、光はそこで初めて自分の片頬が濡れていることに気付いた。
 手で触れてみて、涙だと気付く。自分のものではない。なら、セルファ以外には考えられない。聖一も刃も涙を流してはいないし、何より、この場で涙を流しているのはセルファだけなのだから。
 自分の胸に抱きついたままのセルファを光は見下ろした。
 噎び泣くセルファを、そっと抱き締める。温かさを感じた。自分のために、これほどまでに涙を流したのだと思うと、心が痛かった。とても辛い思いだったに違いない。
 心臓も呼吸も止まってしまえば、人間は確実に命を落とす。心臓マッサージや人工呼吸などで蘇生確率を高めたとしても、時間が経てば経つほどに助かる可能性は減っていく。ましてや、血流が止まり、脳が酸素不足となれば記憶障害などの後遺症が残る可能性もある。
 何の後遺症もなく助かったのは、セルファが光の心臓を動かし続けていてくれたお陰なのだ。気がついた時も、苦しさなどは感じなかった。ただ、深い眠りから覚めたような感覚だったのだから。
「……ありがとう」
 それだけ言うのがやっとだった。
 他に、何と言葉をかけてやればいいのか判らない。
「ジンも、助けてくれたから……」
 袖で涙を拭いながら、セルファはようやく光から離れた。だいぶ落ち着いてきたらしい。
「……刃」
「光、一つだけ言っておく」
 光を見下ろして、刃は口を開いた。
「シェイドは、俺が殺す」
 予想外の言葉に、光は驚いたように目を見開いた。
「あいつは、俺の獲物だ」
 何か因縁があるとしか思えない言い方だ。
 ただ、刃にとってシェイドは越えなければならない壁であることだけは解った。それだけは譲れないとでも言わんばかりに、光の目を見据えている。もしも光が刃の言葉を拒むのであれば、この場で斬り捨てるとでも言い出しそうな勢いだった。
「……刃、俺は、もっと強くなる」
 答える代わりに、光は言った。
「もう、誰にも負けたくない」
 刃が目を鋭く細める。
 その鋭い眼光を受け止めて、光は刃の目を見返した。目は逸らさない。いや、逸らしてはいけない。
「俺は、あんたよりも、強くなる」
 光が倒さなければならないのは、シェイドではない。
 アグニアだ。そこへ辿り着く前に、シェイドが立ちはだかったに過ぎない。刃がシェイドを自分の獲物だと言うのであれば、光の前に再びシェイドが立つ前に、刃が彼を仕留めればいい。
 光は、刃やシェイドよりも強くならなければならない。その先にいる、アグニアに辿り着くために。
「何のために、強くなるつもりだ?」
 刃が問う。値踏みするかのような質問だった。
「俺の全てを、守るために」
 光は迷わずに答えた。
 大切だと思えるもの、欲しいと願うもの、共に過ごしたい人、守りたいと思えるものが、光にとっての全てだ。自分を形作る環境、自分のいる場所、自分の命、大切な人の命、望む未来、それが全てだ。
 真っ直ぐに刃の目を見つめていた。
「いい目をするようになったな」
 刃はそう言って小さく笑った。満足する答えを聞けたとでも言うかのように。
「……お前は、それでいい」
 背を向ける刃を、光はただ見つめていた。
 その背中を、直ぐにでも乗り越えたいと思えた。


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