研究は自己表現なのでしょうか。

博士進学のための研究相談。

副指導教員の言葉で、「研究は自己表現なのだから、自分がやっていて楽しいものをやりましょう」という旨の言葉。

どうも、「XXさん(私の名前)は、こういうことがやりたかったのでしたっけ?」と感じさせているらしい。

No. No.



サラリーマンを6年やっている自分は、心構えが違います。


「自己表現」、みんながそればかりしているから世の中がshitになってるんだと思っている派。


冷めた見方をしている派。だから現代アート的なものが大っ嫌い。

そもそも、自分自身が自己表現したいことがない。
別に自己表現できる人にも憧れない。
多くの人を救いたいだけ。社会を良くしたい。それ以外は虚無です。

※もちろん、自分の身の回りの幸せが担保された上で、救いたいという括弧付きですが。自己犠牲まではできない。


今のZ世代は知恵の実を食べたと表現する書籍があるようですが、

一定の力を注ぎ込めば、自分がそれなりに多くの領域で平均以上のパフォーマンスを出せることを知ってしまっています。おじさんたちが無能であることも。家庭参加をしてこなかったことも、お見通しだし。
なので、全く尊敬に値しないことも、知ってしまっています。

言語化能力を高めてきました。言語化能力をつける鍛錬は惜しみなく行ってきました。
様々なジャンルの本や情報をたくさん読み、生成AIを見方につけ、日々やるべきことをやっていくのがmy daily life。

※もちろん、手を抜くこと、生きやすい環境を整えることも忘れません。若者は違和感は臆せず言い返しましょう。しっかり寝て休みサボりましょう。


はい!はい!と言われたこと与えられたことをやりますが、精神はロックスターでやっていきたい。


Z世代とミレニアム世代の良いとこ取りをして大人になっていきたいものです。

そんな人間が研究する動機は、

自分が取り組む必然性はない、しかし社会の中で誰かが必ずやるべき重要なテーマだ、と思える仕事を遂行すること。


だから、自分の名前を残すとかそういう動機はない。

提案したい概念や、そのアイデアが社会に埋め込まれていってくれれば良いと思っています。


つまらないんですよ、自己表現の研究は。


どうしようもなく大きな構造による理不尽を、なんとか組み伏せたいとか、なんとかして変えたいとか、
構造に虐げられて苦しい人々を、救うまでいかなくても、ああ、こんな価値観・捉え方があったんだと、心の距離が取れるような、
そういう普遍性が必要だと思っています。

自己表現の研究には、なんかそういうのが、なんか、ほんと無い……….


私にとってリアリティがあることは、

  • 大学生の経済格差・ジェンダー格差

  • きつい就活

  • Japanese Traditional Company

  • 長時間労働

  • DXの遅れ

  • 男性稼ぎ主モデル

  • 遅い意思決定

  • ESG投資、インパクト投資の欺瞞

  • 長い稟議

  • 興味の持てない仕事・資格勉強

  • ブルシットジョブ

  • 物価高騰

  • 燃料費高騰

  • NISA、iDeCo

  • 創価学会の投票依頼

  • 高い学費

  • 高い社会保険料

  • 持てない家、車

  • 親類の離婚

  • リモートワーク

  • 留学生

  • 東京

  • 地方都市

  • 出産の医療化

  • 猛暑

  • 猛暑

  • 猛暑

こういうものです。

そこに、風車もニホンザルもバックキャストも入らない。

で、あまりに社会学的に取り扱うべきテーマが多すぎるので(もちろん一つを選んでも良いのだけど)

違和感を感じるわけです。

え、なに? 
普通に生きてるだけできついんだけど、
この次々現れる息苦しさを形作っている構造が
なんかでっかいやばい欠陥みたいなものが
あるでしょうがよ。
と。


福祉国家や社会政策に興味を持ち、国際比較を行うのは必然です。
扱える範囲で、経済や産業の歴史もベースの知識として持っておくべきです。

またそこに、じわじわと気候変動が忍び寄っているわけです。

※ちなみに、気候変動の問題はどちらかというと日常のリアリティよりも、理性で興味が湧いた問題です。
井の中の蛙と言われるように、気候変動は最もリアリティが持ちづらく、かつ時限爆弾的な要素もあるので、非常に厄介です。
が、気候変動が戦争や格差、少子高齢化、メンタルヘルスの悪化などにも勝るような、前代未聞の問題かというと、なんだかそこは妄想というか、そういう「フレーミング」もあるよね、と冷めた見方になってしまいます。
しかも、どうせ人口減少(もしくは気候「危機」が激甚化した場合は、それによる死者数)でまあ緩和されてくるでしょうという楽観的な気持ちも、どこかにあります。世界の出生率はもはや2.XXくらいなので.. 1.0を割るのも時間の問題です。

さて、実際私にとってリアリティがあるのは上に列挙したような問題ばかりですが、こういう問題に忙殺されているような人間も、
「ああ、それならやるべきだね」と納得できるような
気候変動対策(政策)を考えるべきだと思うのです。


トランプ支持者も納得する環境政策をやらないといけない。

さらには、日本の保守ひいては無党派層も納得する環境政策をやらないといけないと思うのです。


これは、私がする必然性のある仕事(研究)とは全く思いません。

なんならもっと知識や経験、才能のある立派な人がやってくれれば良いとは思います。
でも、そういう動きはあまり見られません。(ありきたりな政府批判とかで終わっていてめっちゃダサい本とかは出てきています。)

仕方なく、自分がするしかないです。

ああ、これなら賛成できそう。
意識高い系、リベラルの戯言ではないな。
現実からも跳躍しすぎていないな。


そう言わしめるような、環境社会政策というものを、考え、形作っていかないといけないのです。


それは私の仕事ではないのかもしれないけど、必ず、社会には、そういう視点のある人間が必要だとは思うのです。

万人が、環境問題や気候変動のことばかり考えて生きているわけではないので。

そういう色々な人がいる社会の中で、

勝手に誰かがやってくれていれば良いやというローカルな取り組みの寄せ集めではなく、
局所最適ではなく、

構造に対するアプローチ、研究、理論作りというのが、
フィールドワークが全盛な社会学の世界で、やるべきなのです。

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